濹堤通信社綺談

江都の外れ、隅田川のほとりから。平易かつ簡明、写真入りにて時たま駄文を発行いたします。

北海道から帰ってきた話

 去る2018年9月6日、北海道胆振地方中東部を震源とする最大震度7の大地震があった。北海道胆振東部地震である。
 僕はこの地震に、旅行者の立場で遭遇した。もちろん被害の大きかった地域に住まわれている方とは比べ物にならないが、僕なりに大変な思いをして東京まで帰り着き、いくつかの教訓らしきものも得ることができた。
 あくまでも旅行記の体で、そのことについて書いてみるものである。

9月5日~6日未明

 そもそも、5日の時点からして道内の交通はガタガタだった。
 前日夜から北海道には台風21号が通過していた影響で、朝の時点でJR北海道は12時前後までほぼ全線で運転を見合わせるアナウンスがあった。
 結局のところ12時にはJRは運転再開しておらず、僕は12時30分札幌バスターミナル発の道南バス高速ハスカップ号にて苫小牧へと向かった。苫小牧での用事を済ませると19時近くになっており、さすがに運転再開していた室蘭線に乗ることができた。そんなこんなで当日の宿にたどり着いたのは21時近くになってのことだった。

 当日の宿だったのが、白老町虎杖浜温泉ホテル。
白老町の虎杖浜温泉ホテルへようこそ - 虎杖浜温泉ホテル【公式ホームページ】
 虎杖浜白老町でも登別市に隣接する地域だ。名だたる登別温泉に近いこともあり、戦後に白老臨海温泉として開発されて今に至っている。また虎杖浜は道内でもタラコの産地として知られる。現在一般的な外国産タラコの加工品ではなく国産タラコを使用していることもあり「虎杖浜たらこ」は地域ブランドとして確立してもいる。
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 お土産として購入できるだけでなくタラコまみれのタラコ丼なども食べることができるので、タラコが好きでプリン体摂取量の心配がないのだったら是非訪れて欲しい。
 
 今回は到着時間が遅かったこともあり、夕食はコンビニ飯と相成った。虎杖浜温泉ホテルは敷地内に24時間営業のセブンイレブンが存在するので大変便利である。北海道のコンビニおでんにはちくわぶが存在しないことを知って絶望し、豊富な湯量の温泉に身を沈めたあとは部屋のベッドに陣取ってサッポロクラシックを呷った。


 水曜日の深夜帯、HTVは「水曜どうでしょう」→「ハナタレナックス」→「ピエール瀧のしょんないTV」という地方制作バラエティ3連コンボで我々を待ち受ける。2本のサッポロクラシック350ml缶と地方制作バラエティ3連コンボの前に幸せな敗北を喫した僕は、テレビもつけっぱなしでいつしかまどろみの中に沈んでいったのだった。

9月6日 3時7分

 揺さぶられている感覚で目覚めた。
 地鳴り。周期の短い強い横揺れ。多少の感覚の違いこそあれ、マンションの5階で味わった東日本大震災の揺れに近いものを感じ、即座に地震であることは理解した。今回の部屋は鉄筋コンクリート造のホテルの2階だった。
 次に思い至ったのはホテルの立地である。海まで徒歩2分。東日本大震災クラスの揺れ。
 「……津波だ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
 部屋のドアを開けて、まだ揺れている最中に着替えをした。つけっぱなしだったはずのテレビは消えていた。リモコンの電源ボタンを押すが反応はなく、ここで初めて停電に気づいた。部屋の明かりは非常灯に切り替わっていた。
 前日寝落ちしたせいでスマホの充電は6%。モバイルバッテリーに繋いで、radikoNHKラジオを聞くとアナウンサーが津波の心配はないと繰り返しており安堵する。他の部屋の宿泊客も廊下に出ている声が聞こえたので、僕も部屋を出て1階ロビーに降りることにした。喫煙所に行きたくなったのが直接的な理由だが、本能的には人間を求めていたのかもしれない。

 1階ロビーは端的に言って軽いパニックが起きていた。中国人観光客団体に何事か大声で説明する添乗員らしき中年女性。ホテルの従業員に情報を求め詰め寄る年配の男性。僕はといえば玄関を出た灰皿の脇で煙草に火をつけ、停電によりすっかり暗くなった海沿いの町と、対象的に明るい星空を見つけて何やらエモい気分になったりしていたのだった……
 ふと思いたってホテルに隣接するセブンイレブンへ行くと、照明は消えていたが自動ドアは開放されていた。中では中国人観光客らしき一団がカゴにペットボトル入りのミネラルウォーターを詰め込んでいた。レジに並んでいる客もいる。「まさか……」と思ったが、そのまさかで停電中でもセブンイレブンはレジが稼働していた。「???????」と脳が訴えかけてくるのを感じつつも、平静を装い僕は煙草を1箱だけ購入した。【失敗ポイント】

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 地震から1時間ほど経ち、午前4時を過ぎるとロビーに詰めかけていた宿泊客も各々の部屋に帰り始めた。停電はまだ復旧しておらず、東の空がだんだんと白んでくるのが手に取るようにわかった。しかしながら、この頃はまだ停電は近々復旧すると思っていた。ラジオからの情報では、新千歳空港では滑走路に異常が見つからなかったことも告げられていた。まあ、大丈夫だろう。明日の飛行機で東京には帰れるだろう、という根拠のない楽観の中で僕も自分の部屋に戻り、ベッドの上で眠ることもできずスマホをいじることになった。【失敗ポイント】

9月6日 早朝

 6時過ぎになって、東京の家族へ無事である旨を伝えることができた。それと同時に、段々と自分の置かれた状況が深刻であることも理解できるようになってきた。

 まず、新千歳空港の運航再開見通しが立たない状況であることがわかった。滑走路の異常はなかったものの、ターミナルビルが壁・天井の崩落、漏水などで閉鎖されたのだ。
 思い起こされたのが、数日前の台風21号によって関西国際空港の閉鎖が長引きそうだというかねてよりのニュース。そして、2016年の熊本地震の際には熊本空港の閉鎖が数日間に及んだことも。
 これによって、当初の予定通り翌日の飛行機で東京へ帰ることは、この時点では全く現実的でない選択肢となった。(ちなみに僕が搭乗予定だったこの飛行機は、運航再開した新千歳空港からの第1便として飛んだのだが。)

 そして、停電が思ったよりはるかに深刻で、文字通り普及の目処が立たない状況であることがわかった。
 全道に及ぶ停電の原因が、電力需給のバランス崩壊によるいわゆる「ブラックアウト」であろうことはTwitterなどでの情報からわかっていた。道内最大の苫東厚真火力発電所が緊急停止したことにより引き起こされ、再稼働させるために水力発電所からの電気を送っている、という情報がNHKからは伝えられていた。ところが、この苫東厚真火力発電所のタービンその他が損傷していることがこの頃ようやくわかったのである
 ということで、電気は来ない。来る見込みもない。

 ……ヤバい。
 今回つくづく理解したが、現代社会というのは本当に電気に頼っている。「電気があれば何でもできる」状態なのだ。

 電化製品が使えないというのは言うまでもない。スマホの充電は、残量80%くらいの1200mAhモバイルバッテリーが頼みの綱となった。
 JRは当然動かないだろう。なにしろJR北海道が災害に対して非常に弱くなっているということは、前日の台風の影響で身にしみて理解している。今回は停電によって、信号も動いていない。となると今度ばかりはバスも動かないだろう。よしんば新千歳空港が再開したとしても、約60km離れた空港へ向かうのは大変に困難であることが予想できた。

 そして僕を一番危機的状況へと追い込んだのが、ATMが使えないということであった。
 前日夜、チェックイン時に宿泊料金を現金で支払っていたこともあり、当時僕の財布に入っていた現金は4000円弱であった。その時は「明日の朝下ろせばいいや~~~」などと思っていたのだが、夜が明けてみればこの有様である。【失敗ポイント】
 4000円弱という現金は、命を繋ぐことはできるがそれ以上のことはできないだろう。ましてや公共交通手段の一切が絶たれた状況で、都市部でなく、かと言って名だたる観光地というわけでもない土地から脱出するにはあまりにも少ない金額だった。
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 絶望に沈みかけた中で、ホテルは朝食を出してくれた。停電により加熱調理はできないらしく、パンとサラダ、果物などに限られたものではあった。しかしそれでもコンビニではすでに食料品が払底していたこともあり、僕はこの朝食のおかげで飢えを逃れることができた。人生でこんなにポテトサラダを食べたのは初めてだろう、というくらいポテトサラダを食べた。僕はあの時、まさしく向井秀徳だった……
youtu.be

 朝食を食べたことで緊張の糸が緩み、自室のベッドで寝た。

9月6日 午前中

 9時過ぎに起きたと思う。両親からは早急な帰宅を勧めるLINEが何通も入っていた。自分でも、このまま北海道にいても何もできないだろうと思い始めていた。でも新千歳空港をはじめ、交通機関は復旧していない。現金が4000円では何もできない。また思考が停止しようとしていたが、思い出したのがフェリーの存在である。
 一昨年、北海道から帰京する際に僕はフェリーを使った。苫小牧ー八戸のシルバーフェリーである。インターネットで情報を集めると、北海道を発着するフェリーは通常運航しそうな気配があった。
 現時点でこの島を出るにはフェリーしかない、そんな気がしてきた。
 10時になって、バイト先に7日の欠勤連絡をしようとしたところでスマホに着信があった。市外局番からすると苫小牧の番号。出てみると、その日に泊まる予定だった苫小牧のホテルからだった。
「ベッドの用意はできるが、電気ガス水道の復旧の目処が立たず満足なサービスができない。キャンセルの場合、返金する」という内容だった。その時点では、苫小牧までたどり着ける保証もない。ましてや翌日、新千歳から飛行機に乗れるとも思えなかった。二つ返事でホテルをキャンセルし、僕の頭は一気にフェリーによる北海道脱出へと切り替わっていた。

 ここで、僕の中にあった選択肢は2つ。1つが、シルバーフェリーこと川崎近海汽船苫小牧ー八戸航路。「とにかく本州に上陸すればどうとでもなる」という思いが強かったので、仙台や大洗までフェリーで渡ることはあまり頭になかった。
 もう1つが、6月にできたばかりのシルバーフェリー室蘭ー宮古航路東北新幹線にすぐに乗ることができる八戸に比べて、宮古は不便ではある。でもまあ本州まで行けば公共交通機関はいくらでも動いているだろうし、何より電気があるからATMも動く。何でもできるだろう。
 苫小牧ないし室蘭までは、タクシーを捕まえるのがその時考えられる一番現実的な手段だった。幸か不幸か、白老町は苫小牧と室蘭のまさしく中間に位置しているのでどちらへのアクセスも可能ではある。Googleマップを開いて現在地からの距離を確認する。苫小牧までは約40km、室蘭までは約30km。室蘭からフェリーに乗ることを決めた。

 シルバーフェリーのインターネット予約は前日まででったので、電話での予約になる。室蘭、苫小牧といった道内の事務所はかけるだけ無駄に思えたので東京の事務所にかけるが出ない。
 そこで宮古の事務所に電話をかけると、拍子抜けするほど簡単にチケットがとれてしまった。9月6日20時室蘭発宮古行きのシルバークィーン、これが僕にとって文字通りの「助け舟」となった。
 とにかく北海道から脱出する手段は確保できた。……が、ここで僕の思考は完全に停止した。

9月6日 午後

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 "エモ”を、していた……
 静かな海を見ては、時折ブラックニッカのポケット瓶を舐めるなどしていた。
 
 何よりも、手元に現金が4000円弱しかない、というのが悩みの種だった。室蘭まで行くとして、タクシーは恐らく8000円程度かかる。クレジットカードは使えるのだろうか……
 いや室蘭まで行けたとして、フェリーの運賃もある。これこそクレジットカードが使えなかったらどうしようか。宮古で払えるよう、泣きついて頼み込むしかないか……
 というか、タクシーを捕まえることができるのだろうか。呼んだら来てくれるであろうか。両親からは「ヒッチハイクしたら?」などという無責任なLINEが来ていた。そりゃまあ、やってできない事はないだろうが……
 「明るいうちに行動した方がいい」というのはその通りだろう。いざとなったら着替えなんかは打ち捨てて、歩いてでも室蘭に行くしかないのだろうか……

 などと考えていたら何もできなくなった。
 朝食を許される限りしっかり摂ったとはいえ、それもはや数時間前。すっかりお腹は空いていた。空腹が人間から正常な思考力を奪う、というのは本当である。


 そんな状態でホテルまで戻り、玄関脇でしゃがんで今日何本目か最早わからなくなった煙草に火をつけた時だった。
 ホテルの車寄せに、1台のタクシーが止まった。車体の文字から、登別のタクシー会社であることがわかる。後部座席には客が乗っているので、誰か別の人間が呼んだタクシーではない。支払いは……クレジットカード。
 カード!!!!!!!!!!!!クレジットカードが使える!!!!!!!!!!
 先客を見送り、再び乗り込もうとする運転手を捕まえる。
 「あの!!!!室蘭まで行ってもらうことできますか……?」
 「室蘭なら……いいよ」
 フロントに預けていた荷物を回収し、タクシーに乗り込む。ドアに貼られた「中型」のシールを見て、(小型じゃないから高いな……)と思ったのを記憶している。

 ところで僕は、車の免許を持っていない。運転手が「室蘭なら」と言った理由は、車を運転しない僕には考えもしなかったが、至極当たり前の理由だった。
 「ガスがさ、ないんだよね」
 停電により、ガソリンスタンドの殆どが営業できない。数少ない営業している店舗の前には長蛇の列ができているが、これまた停電で製油所からの搬出が止まっているのでいつまで持つのかわからない。本当に電気がないと何もできないのだ。
 信号の一切灯っていない国号36号線をひた走り、メーターは予想どおりの金額で止まった。お礼を言ってタクシーを降り、室蘭港フェリーターミナルへ入る。2階の待合室に置かれた長椅子に陣取ると、安堵感からか僕はすぐに意識を失った。

9月6日 夕方

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 最後の懸念材料は「室蘭でフェリーの運賃が支払えるか」だったが、なんとここでもクレジットカードを使って払うことができた。神か。これでカウンターで泣き落とす必要もなくなり、手持ちの現金は全てフェリーの中で使えることになった。フェリーターミナルに一番近いコンビニはセブンイレブンだったが営業しておらず、かといって室蘭駅の方へ歩く気力も無かった僕はここでもまだ飢えから逃れられていなかった。

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 明かりの一切灯らない室蘭の街とは対象的に、空は悔しいほどにオレンジ色だった。僕を含めて待つことしかできない乗客たちは皆スマホを取り出して写真を撮り、ぼんやりとそんな景色を眺めていたのだった。


 僕が長椅子で寝たりエモ空を眺めている間に、フェリーターミナルには続々と人が詰めかけていた。午前中の段階で予約をしていなければ、とうてい乗ることはできなかっただろう。
 18時過ぎに、宮古からフェリーが到着した。待ちかねていた500人の乗船予定者たちが、一気に総毛立ってくる。
 ふと、ヒギンズの『脱出航路』を思い出した。ドイツの敗色濃厚となる中、制海権を失った大西洋を横断してブラジルからドイツへと渡る老朽帆船ドイッチェラント号に乗り込む様々な人々。手に汗握る危険な航海にはならないだろうが、僕を含めた多くの人々にとってはこのフェリーが「脱出航路」に他ならないのだから。


 フェリーからは続々と赤い回転灯を灯した緊急車両が、すでに真っ暗になった室蘭港に降りたってくる。後でわかったことだが、これらは岩手県から派遣されてきた部隊だった。

 19時過ぎに乗船開始のアナウンスがあった。停電でボーディングブリッジが使えないので、1台のバスによるピストン輸送で乗船客を船内へ入れるという。たまたま出入口付近にいた僕は、運良くその第1便に紛れ込むことができた。
 バスでフェリーの車両甲板まで入り、階段を登って船室へ。割り当てられた二等船室の一角に荷物を置くと、一目散にレストランへと向かった。近年のフェリーの例に漏れず、シルバークィーンのレストランも冷凍食品を自販機で購入し、備え付けの電子レンジで温めて喫食するタイプだった。
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 冷凍されたビビンバとチキンナゲットが、僕にとって12時間ぶりの食事となった。普段なら大脳をフル回転させて「SF食だ!!!」という興奮の中、咀嚼と嚥下を繰り返すような代物ではある。この時はただただひたすらに「温かい食事」がありがたかった。
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 定刻の20時を少し過ぎて、フェリーは室蘭を出港した。「東京に帰れる」という安堵感の中、同時に僕は「寝る!!!!!!!」という強い意志を示すために体へカップ酒を投入し、泥のように眠った。

9月7日

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 海路つつがなく、シルバークィーンは岩手県宮古港に着いた。
 コンビニに電気がついていたり、満員のフェリーの乗客に対応するべくフェリーターミナルへバスがどんどん送り込まれているのを見て、インフラが生きている地にたどり着いたことを実感した。

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 宮古では見ず知らずの方に教えてもらった魚菜市場でイカを食い(メチャ美味だった)

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 カキを買い(クソ重かった)

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 盛岡まで出て東北新幹線に乗り(車販のお姉さんにDWUの動画を視聴しているのを見られた)

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 地震から38時間後、ようやく帰宅したのだった。

今回幸運だった点

・携帯の電波が通じていたこと
 今回、何が一番幸いだったかといえばこれに尽きる。僕のキャリアはdocomoだが、全道が停電している中でも電波が途切れることはなかった。
 連絡が取れる、情報が得られるという基本的にして何より大切な恩恵を受けることができた。さらに、クレジットカード決済が使えたのも携帯の電波が通じていたおかげである。
 現金4000円弱でも何とかなったのは電波のおかげである。電波があれば何でもできる。というか本当に、電波が通じなくなっていたら恐らく何もできなかっただろう。

今回得られた教訓

 今回、旅行者の身分で地震・大規模停電という災害に遭遇したことで、いくつかの教訓を得ることができた。文中にいくつかある【失敗ポイント】から、それらを抽出していきたい。

 ・人間は過度の負荷がかかると、根拠のない楽観に支配される
 「停電はすぐ復旧するだろう」「JRは今日中には動くだろう」「新千歳空港も再開するだろう」「予定通り旅行を続けられるだろう」というやつである。
 恐らくこれは危機に対する人間の防衛反応なのだとは思うが、最悪の事態を頭の片隅に置いて行動したほうがいいのがよくわかった。

 ・現金は持っておけ
 今回、何が僕を一番苦しめたのかといえばこれである。特に旅行中は、ある程度の現金を持っていたほうが絶対にいい。できれば何かあった時に安全な場所へ脱出できる程度の……

 ・電気がないと何もできない
 停電によりATMが使えない、というのが僕にとって最大の痛恨事であった。当然、銀行信金郵便局といった各金融機関も停電により休業していた。
 スマホの充電もモバイルバッテリー頼みになった。前日酔っ払って寝落ちして、充電器に繋いでいなかったせいでもあるが……
 あと地味ながら困ったこととして、「水が流せない」というのがあった。僕のいた地域では断水はしていなかったのだが、ホテルでは水を汲み上げるポンプが停電により動かなくなって水が出なくなった。それ以外にも、センサーによって水を流すタイプのトイレだと、停電すると水が流せない。手洗い場も同様である。
 それ以外にも自販機が動かない、公共交通機関が動かない、ガソリンスタンドが営業できないなどなど、停電による影響は挙げていけばキリがない。「電気があれば何でもできる」というのは誇張であれど虚構ではない。

 ・食べ物を確保しろ
 今回、飢えた。人間というのは空腹になると、正常な思考ができなくなることを実感した。
 原因は地震直後に営業していたコンビニで、煙草一箱だけ買ってそれ以外何も買わなかったことが大きい。なぜそんなことになったのかと言うと、根拠のない楽観の元にいた僕は地震直後に食べ物を買うのが「買い占めみたいでカッコ悪い」と思ったからだった。
 今なら言える。馬鹿だ。カッコつけている場合なんかではなかった。
 何の地縁も血縁もない場所にいる旅行者であれば、正直なりふり構わず自分の状態を優先した方がいいとさえ思える。余裕のある状況でなければ、恐らく助け合うこともできない……

 ところで今回北海道から逃げ帰ってしまったせいで、僕は当初の用事の半分も済ませることができなかった。なのでそのうちまた渡道することになる。
 言うまでもなく、北海道は無条件にいいところである。クソ広い大地と空があり、美味い食い物があり、そこらじゅうでクソ美味いビールであるサッポロクラシックが売っている。乳と蜜の流れる約束の地カナーンというのは北海道だと言っても過言ではない。
 どうか皆さん、これからも北海道に行ってほしい。北海道はここにある。