濹堤通信社綺談

東都の外れ、隅田川のほとりから。平易かつ簡明、写真入りにて時たま駄文を発行いたします。

ゲタ山タイヤで癒やされて

 趣味というのには、「外向きの趣味」と「内向きの趣味」というものがあると思っている。
「外向きの趣味」というのは、楽しむのに誰か相手が必要になってくる趣味。もしくは、誰かを意識しながら楽しむ趣味だ。当然、「内向きの趣味」というのはその逆で、一人で、ないし自己満足だけが目的に行われる。もっと簡単に言えば、前者というのは「ワイワイやりたい趣味」とか「友達を作りたい趣味」というところでしょうか。
例えば「野球が趣味なんだ」と言ったとしても、チームに参加してプレーをしたり、好きな球団の成績について飲みながらああだこうだ言い合いたいというのなら「外向きの趣味」だし、一人で黙々とバッティングセンターで白球を待ち構えたり、今季のDeNAの成績で悟りを開いたりするのであれば後者。楽しみ方は色々あるし人それぞれだよね、と言ってしまえばそれまでの話なんだけど。

 じゃあなぜこんなことを言い出したのかというと、僕は自分が好きなことに対して、それがどちらのスタンスで楽しみたいのかを明確にしておくのが悪いことじゃないと思っているからだ。同じ趣味だったとしても、時と場合によって「外向き」なのか「内向き」なのか変わってくることだってある。自分が好きなことを楽しむんなら、好きなようにやりたいじゃないですか。特に人間関係や他人のあれこれで悩んだり、イライラすることほど馬鹿くさいことはない。
 これを一番届けたいのは、春から大学に入ってサークルに入ろうとしているアナタだ。そう、そこの。去年は1年リモート授業だったから、2年目のアナタもそう。自分がその趣味で人間関係を作りたいのか、作りたいのであればどういうものなのかを一度明確にしてからお入りなさい。大学のサークルなんて「居場所」以上の意味はないんだから。

 ところで僕はゲームをするけれど、かなり内向きの趣味として楽しんでいる。話題の新作ゲームをやろうとあまり思わないし、だいいちSwitchやPS5といったゲームハードを所持してもいない。いわゆるシミュレーションといったタイプのPCゲームをひとり孤独にプレイしていることが多い。
僕は自由度が高いというか、目標設定が緩いゲームが好きだ。minecraftなんかはその好例だろう。橋を作ったり、道路を作ったり、強いこの腕とこの体でこの国を作っていくのだ。一人で。うつに陥った時なんかにやるとかなり効果がある。僕がゲームに求めているものは、端的に癒やしなのかもしれない。

 最近、一人で黙々とプレイしているゲームがある。『Spintires Mudrunner』という、ジャンルとしては「オフロードトラックシミュレーションゲーム」とでも言うべきもの。

このゲーム、目標として存在するのは「トラックを操作し、木材を運ぶ」こと。強いて言えば本当にそれだけだ。あまりにも単純極まると思われるかもしれないが、実際そのとおり。ただ、そこに至るまでの味付けがあまりにも濃いのだ。
f:id:miko_yann:20210429120755j:plain
プレイ画面である。このゲームの真髄は、とにかく「悪路を進んでいく」というものだ。春先のシベリアあたりを思わせる、もうグチャグチャのドロンドロンにぬかるんだ道路。道路というよりも、泥濘そのもの。泥、泥、泥、水、水、たまに石。悪路などという言葉ではとうてい表すことは不可能だ。
f:id:miko_yann:20210429121123j:plain
しかも、操作できる車両というのがこれまたいい。一部の車両を除いて、全てがソ連製のトラックやトラクターなのだ。渋いというか、実に僕好みで大変に嬉しい。ウラル自動車工場だの、クレメンチューク自動車工場だのといった、軟弱極まる資本主義的な消費者に媚びる必要の一切ないソ連の各自動車工場が持てる限りの叡智を結集して作り上げた、トラックの姿をしたソヴィエト社会主義と労働者の硬い団結の証を机上で手軽に操作して楽しむことができるわけだ。

 とまあ、「どこまでも続く泥濘をソ連製トラックで踏破する」というだけの、渋いというかスパルタンというか、万人受けしないことは間違いないゲームではあるのだが、これが妙に僕の心を癒やしてくれるのだ。
このゲームは基本的にBGMがない。聞こえてくるのは、風の音とか、木々が揺れる音とか、鳥のさえずりとか、川のせせらぎとか。そして、それらを打ち消すエンジン音。1分間に何リットルもの石油がシリンダーに送り込まれ、制御された爆発によって馬力とトルクに変換されていく、ドゥルンドゥルンとした重低音。ばかでかいマッドテレーンタイヤが大地を踏みしめ、むなしく泥濘を撹拌していく音。そういうものが、なんだか実に心地良いのだ。仕事から帰ってきて、寝る前に30分間プレイするというのがお気に入り。寝酒のウィスキーのようなゲームなのだ。飲酒運転したって何のお咎めもない。
 
 こうして夜更けにソ連製のトラックで泥濘を踏みしめていると、思い出すのは椎名誠の『武装島田倉庫』だ。オバケのようにでかいトラックで荒野を行く話があったのだ。椎名誠というのは世界中に行った人だから、SF作品に漂う世界の空気を描写するのが本当に上手いのだ。紀行ものも、エッセイも、青春ものも、はたまた私小説めいた作品もどれもいいのだけれど、それを上回るほどに椎名誠のSFというのは本当に「いい」。
どうもお外に出れなそうな気配がまだまだ続く2021年のGWだけれど、あなたもシベリアの泥濘でシーナSFの世界を感じてみたっていいじゃないか。

風呂がなければ踊れない

  

f:id:miko_yann:20210313230802j:plain
ビールがなければ働けない

 最近、僕は風呂が好きなんだろうな、と思う。それも、たぶん人より。
だから、僕にとって「風呂が億劫」というのはメンタル悪化の一つのバロメータになっている。ちなみに次のステージが「飯が億劫」で、今はここにいる。「あー、やばいな」とは思っていても、どうすることもできない。これが鬱の鬱たるところなのだが、今は「どうもしてやるものか」という根性がまだ残っている、といったところ。
まあなんだ、季節の変わり目ですね。

 話を風呂に戻せば、僕は長風呂をするタイプだ。風呂に文庫本やら、ジップロックに入れたスマホやらを持ち込み、平気で1時間2時間は湯船に浸かっている。実家にいた頃は親に散々怒られもしたし、今の家に住んでからは同居人に迷惑をかけたこともあると思う。だからと言って、やめる気なんてものはさらさらないのだけれど。
一軒家を借りてシェアハウスなどというものをしてみて、間違いなくよかったことの一つは風呂が広いことだ。
足が伸ばせるほどではないにしろ、ちゃんと肩まで浸かれる浴槽がある。古い家ではあるけれど、リフォームが完璧なので、追い焚きのできる新しい給湯器がついている。これだけのものがあれば、成人男性3人分の抜け毛が絡んだ排水口を掃除してやるのも苦ではないのだ。
それに、今の家は銭湯が近い。20分も歩けば、黒湯の湧き出す天然温泉だってあるのだ。黒湯というのは関東平野の南部に特有の温泉で、古代の海水が地熱で温められたものだ。場所にもよるけれど、色の濃いところではそれこそコーヒーのような濃褐色のお湯になる。塩分を含むから頭を洗わないと髪がバリバリになるけれど、ぬるめのお湯でも長く浸かればジンワリと暖まってくる、中々に素敵なやつなのだ。

 つい先日も、この黒湯の天然温泉に行ってきた。3ヶ月に一度が2ヶ月に一度になり、もう最近は毎月のペース。バキバキになったカラダのありとあらゆるところから、温泉を求める声が聞こえてくる。30の大台も近い今日この頃である。
世間様では平日とされる曜日に休みがあるので、その日に行く。大体、午前中からだ。
家を出て、坂を上り、普段の生活圏とは逆の街へ。日常の中の非日常を始めるにはうってつけじゃないか。
露天風呂というのは、よく晴れた平日の午前中に入るためにあるのだ。まだ高いお天道様の下で、広い浴槽で両の手足を伸ばしたら、もうこれ以上の幸せなどというものはこの世に存在しないんじゃないかとさえ思えてくる。本当に、誇張抜きに、そう思うのだ。


 いま、次の住処をぼちぼちと探し始めている。この家の契約が6月で切れるのだ。僕自身が主体となっての部屋探しは初めてなのだけれど、わりあい楽しくやれている。
なにせ僕は、生活が好きだ。どうせやらなければならないのなら、好きになった方がいい。生活の基礎を自分で選べるのだから、こんなに楽しいことはない。
風呂・トイレ別というのが欠くべからざる人権だと思っているので、そういう部屋を見ている。すると家賃の関係で、残されてくるのはバランス釜の部屋だ。
バランス釜は「敬遠」されるらしく、それだけで割引案件になるらしい。バランス釜、いいじゃないか。湯船は狭くなるだろうけれど、追い焚きはできる。
一人暮らしというものをするのなら、一度はステンレスの湯船に膝を抱えて入らなければならないだろう。それが人生というものじゃないのか。
というわけで、バランス釜何するものぞと心意気は高いのだった。
思い出せば、母方の祖父母の「家」だった、松戸の一軒家はバランス釜だった。子供の頃、お湯をかけるなと祖母に叱られた記憶がある。
一度、石鹸か何かをバランス釜と壁の隙間に落としてしまったら、「もうそれは拾えない」と言われた。すると、その隙間というものがとてつもない深淵のように思えてきて、途方もなく怖くなった。そんな因縁のあるバランス釜と、対峙する度胸がついたのだ。これが成長というものだ。


 祖父母の「家」と鉤括弧つきで書いたのは、祖父母の「店」があるからだ。曾祖母が健在だったころまでは、祖父母は北千住駅前にある「店」と、松戸の「家」を往き来していた。どちらかというと、精神的な軸足は千住の方に置かれているのだが。
千住の店には風呂がない。だから、週に2~3度、風呂屋に行く。
「銭湯」という言葉を僕は祖父から聞いたことがない。いつでも「風呂屋行ってくる」と、東京の人らしい母音をはっきり言わない発音で言うのだ。小学生だった僕がその場にいると、誘われることもある。そういうことがあれば、祖父の後ろをついて歩いていくのだった。
千住というのは古い家の多い街だから、未だに銭湯が多い。僕の記憶の範疇だけでもずいぶんな数が減ったけれど、それでもまだ多いだろう。なにせ、小学校の同級生には風呂屋の子が2人もいたのだ。
こうしてみると、風呂の入り方というのは、祖父に教わった気がする。湯船に入る前に、まず体を洗え。身体中を泡だらけにするな。後ろの人にも気を払え。手拭いに石鹸をこすりつけて、石鹸箱にかぶせて吹くと泡が出て面白いぞ。浴槽のお湯は熱いが、そうそう埋めちゃあならねえ。我慢しろ。肩まで浸かれ。軍隊の風呂ってのは、立ったまま入るんだ。刑務所と一緒だよ……


 この間、何の気なしに花王ホワイト石鹸を買った。風呂に入ろうとして包み紙を開いた途端、そんなことがブワッと、本当にとめどなく思い出されるのだ。
そう。祖父と行った銭湯の、三丁目にあった「千代乃湯」の匂いは、まさしくこいつだった。
あの頃風呂上がりに買ってもらっていた、牛乳瓶に入ったリンゴジュース。まだ、どこかで売っているのだろうか?

煮欲を高めよ

 「暮らしが好き」なことは、前にも書いた。
 
mikoyann.hatenablog.com

 僕個人の、言ってみれば「一人称単数の暮らし」は好きだし、出来る限りのことはやって、その上で楽しんでみせているつもりだ。
 「二人称の暮らし」に興味がある……とすると、なにやら怪しげな雰囲気が漂ってくる。「『あなたの暮らし』……すべてを知りたいの……」などと言って盗聴器をしかけたりする激重感情湿度高目前髪重め女みたいになってしまうけれど、そういう趣味はないのでご安心されたい。世間話の範疇でなら興味はあります。
 「三人称の暮らし」には、当然ながら興味がある。特に三人称単数、すなわち特定の誰かの暮らしというものが見れる日記やエッセイは面白い。今の世の中だったらブログやSNSだろう。僕もこうして、誰かに対して僕の暮らしをご開帳あそばしている。
 僕は内田百閒が好きで、「もしも無人島に1冊本を持っていくとしたら……」なんて意味のない話をするとしたら内田百閒の『御馳走帖』を選ぶだろうと思う。食べ物や酒・煙草に関するエッセイがまとまっていて、それでいて僕の嫌いな「美食」の要素が一切ない。戦時中、食べ物に困って「食べたいものリスト」を作るにあたり、「かまぼこの板に包丁を立てて残りを削ったものに生姜醤油をかけたの」を挙げることの何が美食だろうか。
 
www.amazon.co.jp


 美食家ではないにせよ、百閒は食い道楽……というか、自分が食べるものに関してめちゃくちゃうるさい。戦時中、空襲下の東京に暮らした百閒の日記である『東京焼盡』では、日々の食べるものさえ欠くような有様の中で、どうやって様々なものを手に入れるか。借金の天才と言われた百閒先生の手腕が光る瞬間が幾度もある。
www.amazon.co.jp


 僕が好きなのは、帝大農学部にいる知り合いから密造ウィスキーを手に入れて大喜びするが、2回めに貰いに行ったら「次はない」とやんわりと断られ、「そう言われると途端に不味くなってきた」と愚痴るところ。ああ、何たるへその曲がった天邪鬼か。僕も子供の頃から「あまのじゃくおくん」と呼ばれて育った人間だから、他人事には思えない。
 「三人称複数の暮らし」に対する興味というのは、それこそ地理学や人類学の分野だろう。僕の専攻は人文地理学で、その根源に「どこかの人々の暮らし」があるのだ、というのも前に書いた気がするけれど、面倒だからリンクを貼るのはやめておこう。

 そんな「誰かの暮らし」に対する興味はフィクションの嗜好にも現れていて、しっかりと人々の暮らしが描かれている、ないしそれが感じられる作品が好きだ。「空気感」とか「世界観」というのも曖昧な言葉でしっくり来なかったので、僕の中ではそういう基準での好みだということにしている。

f:id:miko_yann:20201115152723j:plain
 秋になると、うちの母の「煮欲」が高まってくる。煮欲、というのは僕の造語だが、何かを煮ようという欲求のことだ。カレーでも、味噌汁でも、何かを煮たいと思えばそれは煮欲だ。これは人間の三大欲求に連なるものなのではないかと思っている。
 毎年のように作られるのが、いちじくの赤ワイン煮。我が家は一時期、福島県郡山市に住んでいたことがある。その頃の知り合いの伝手を通じて、毎年キロ単位のいちじくを仕入れては赤ワインと砂糖をぶち込んで大鍋で煮るのだ。「今年はないかも」などと言いつつ、毎年作っているのだから母自身も気に入っているのだろう。実際に美味く、特に汁がいい。これを冷凍し、ひと冬かけて食べていくのだ。無糖のヨーグルトに入れて食べるのが僕は好きだ。今年のぶんも貰ったけれど、食べ切れそうになかったのでだいぶ親友に上げてしまった。ご母堂に気に入っていただけたようなので何よりと思う。

 なぜこんな話をしたかというと、僕はこの母のルーティーンを「『ハクメイとミコチ』モード」と名付けている。そしてまあ、僕はこの『ハクメイとミコチ』という作品が好きなのだ。ハクメイとミコチ、というのは主人公の女の子二人の名前だけど、そんな彼女たちの身長は9cm。他にも、イタチやアナグマ、ネズミにトカゲ、コクワガタ……そんな面々が登場する森を舞台に、描かれているのはしっかりとした「誰かの暮らし」そのものだ。ハクメイは大工や修理屋、ミコチはお針子やったり、保存食品を作って卸したり。なにせ身長が9cmなものだから、普段見慣れている食材さえも大きく描かれて、それがたまらなく新鮮で、とてつもなく魅力的なのだ。
 アニメ化もされているし、原作の漫画も8巻まで出ている。もちろん1巻から読むのが普通なのかもしれないけれど、僕が薦めるなら4巻だ。
www.amazon.co.jp

 「ジャムと祭り」は、大量の木苺をジャムにする話。いちじくを煮ている母から『ハクメイとミコチ』を連想するのは、多分この話のせいだと思う。身長9cmの彼女たちだから、木苺と言ってもハンドボール大くらいに見える。そういえば、子供の頃に読んだ「こどものとも」にも、ネズミが木苺をジャムにする絵本があったな……と思ったら見つけた。白石久美子『ひめねずみのみーま』だ。いやあ、子供の頃からぶれていない。僕に若干の少女趣味の気があるのに、もしかしたら気づいた人もいるかもしれない。榛野なな恵Papa told me』の話はまた今度で……
www.fukuinkan.co.jp
 その他にも、この巻には僕の好きな話が盛りだくさんなのだ。「大根とパイプ」では、ミコチの姉のアユネが訪ねてくる。土産が大根1本なのだが……当然巨大である。このアユネがパイプ喫煙者なのだけど、僕がこれに影響されてパイプに手を出したのはここだけの話。そうこうしているうちに、ゆっくりパイプを燻らせるような真似はとんでもない贅沢な世の中になってしまいました。今や「座って煙草を吸う」というだけで贅沢な時代です。
 この巻の最後に乗っている「夜越しの汽車」も大変にいい。夜汽車というのは夜の闇を切り裂くようにずんずん走っていくのに、車内には不思議なくらい穏やかで優しい気分が流れている。しかも、目的地には朝に着くのだ。なんだか時間を得したような気がする。夜汽車というのもこの国にはほとんどなくなってしまったけれど、この話が僕の心をずいぶん慰めてくれている。

 ところで今、我が家には大量のイノシシとクマの肉がある。ファミリー向けサイズの冷蔵庫にぎっしりと。
f:id:miko_yann:20201026101846j:plain
 ひょんなことより猟師の知己を得たのでこういうことになっており、大変にありがたいことではあるのだけれども、「どうすっぺ……」というのが嘘偽らざるところである。
 イノシシはまあ、鍋なりなんなり、まだ「攻略法」を思いつくのだけれども、問題はクマだ。熊肉なんて、まだろくに食べたこともないのに何とかしなけりゃいけない。ということで、『ゴールデンカムイ』を読み返していたら頭がすっかりアイヌ料理になってしまった。これはもうアイヌ風の熊汁、「カムイ・オハウ」しかないのではないか?となり、さらに冷凍のギョウジャニンニクを買ってしまった。なんと1kg。岩見沢から直送!もう、ただの馬鹿なのは間違いない。
f:id:miko_yann:20201122120934j:plain
 そんなわけで、近々こいつらを倒す宴を催すつもりでいる。どうなるのかは、またそのうち。

 

一人で飲む酒のこと

f:id:miko_yann:20200916192135j:plain
 日々、キッチンドランカーしている様子ばかりをTwitterにあげているので、人が見たら僕のことを相当に呑兵衛だと思うかもしれない。実際、愛すべき友から心配していただいたこともあるのだが、僕はと言えば自分ではあまりそういうふうには思っていない。
「おとなになるということは、自分の酒量をわきまえることさ」
 ヤン・ウェンリーがこう言っていた。それに従えば、僕はもう「おとな」になったのかもしれない。「なった」のか、それとも「なってしまった」のかはわからない。でもまあ、吐くまで飲むようなことは最近たしかに減ったのだ。

 僕はもともと酒には強くない方なので、酒で前後不覚になるということはめったにない。と言うより、なれない。ビール1杯で真っ赤になるし、短時間で飲めば吐き気がやってくる。二日酔いなど待たずに、数時間で頭痛に襲われる。それを過ぎればもうまどろんでしまう。朝にまで酒が残っているという経験をしたことがないのは幸せなのかもしれない。そんな酒に弱い僕だから、何かから逃げようと思って飲酒をしたことがない。できないんだから、したことがない。これもまあ、飲酒という行為に対するあり方としては幸せなんだろうと思うことにしている。
 それでも、酒を飲み始めて間もない頃は、場に飲まれて自分の酒量を過ぎることはあった。酔っ払って走り回って、段差を登りそこねて足の裏を強打したこともある。高校の同期と痛飲し、肩を組んで高校の応援歌を歌いながら夜の渋谷や吉祥寺を闊歩するという、平成生まれの若人とも思えないエピソードも1つや2つではない。そういうことを、ここのところしていない。コロナ禍で人と飲む機会が減ったせいかとも思ったけれど、もう2~3年はそういうことからご無沙汰な気がする。社会性を身に着けたのか、それとも牙を抜かれてしまったのか。でも、それになんとなく寂しさを覚える当たり、僕はもう「おとなになってしまった」のかもしれない。

 そんなわけで大人になってしまった僕は、自分の酒量を知ってしまった。人と店で飲むのであれば、2杯。3杯飲むこともあるけれど、そうなるとしばらくしたらもう頭痛だ。ビール、酎ハイ、ハイボール、日本酒。このあたりから、その日の気分で2杯を組み合わせるのが僕に幸せを与えてくれる程度の酒量というわけだ。ただし、ワインはいけない。特に赤ワインを飲むと、尋常でない頭痛に襲われることになってしまうのだ。
 しかし一人で飲むとなると、話が変わってくる。人と話さずにいると、どうしたってペースが早くなる。ビールは好きだけれど、数分で空けてしまうからすぐに酔っ払ってしまうのだ。だから、一人で飲むのであれば1杯が僕の酒量だと思うことにしている。一人でさっさと酔っ払ったって、楽しいことも特にないし。
 コロナ禍のおかげで家での一人飲みの経験も増えて、段々と上手くなってきた気がする。酒を薄く割るとか、腰を落ち着けてじっくりと飲むとか、そういうことができるようになった。それで気づいたのだが、僕はどうも洋酒党らしい。できることなら古今東西の銘酒を揃え、小粋なカクテルで夜を楽しみたいと割と本気で思っている。『今宵もサルーテ!』、いい漫画ですよね……しかしながらそんなことを許す財布があるでもなく、できることと言えば蒸留酒ソーダで割るくらいだ。

 夏の暑い盛りは、存分にソーダ割りをした。例えば、ジンのソーダ割り。ウィスキーの原酒不足に陥ったサントリーが流行らせようとしているが、そんなのの前から僕はすでにやっていた。ライムもレモンも入れず、本当にジンをソーダで割っただけで十分だ。僕はボンベイ・サファイアでこいつをやる。揚げ物にも浅漬けにも合うからおすすめだ。
 もう一つやっていたのがカンパリソーダ。食前酒として名高いカンパリだが、ソーダで割るとどんな食事にも合う。なんと、和食にだって合ってしまう。考えてみれば苦いリキュールのソーダ割りというのは、乱暴に言ってしまえばビールに近い味わいがあるのだ。肉じゃがにカンパリソーダ、意外なほどのマリアージュを示すのでぜひお試しあれ。

 夏が終わって秋になり、夜が長くなってくるとウィスキーの季節だと思う。もしも今後、1種類の酒しか飲めないとしたら、などという意味のない仮定をすれば僕はウィスキーを選ぶ。
 僕がウィスキーを気に入ってる理由の一つに、つまみがなくても飲めるというのがある。ビールやジンのソーダ割り、日本酒やらウォトカなんていうのを飲んでいたら、つまみがなくては死んでしまう。もちろんウィスキーを飲むにあたって、ナッツやチョコなんかがあれば嬉しいのは確かだ。でもまあ、無いなら無いで別にいい。「おれは酒を飲んでいるんだ」という実感を味わうのに最適なのがウィスキーなのだ。
 それに、ウィスキーほどじっくりと飲める酒というのも無いように思う。なんせ、そのへんで変えてしまうお手頃価格のウィスキーだって、樽の中で10年やそこらは熟成されているのだ。それを数秒で飲み干してしまったら、ウィスキー自身にも、携わった造り手にも申し訳が立たないような気がする。落ち着いて、じっくりと向き合ってやるのが、ウィスキーに対する正しい姿勢であると僕は思っている。

 ウィスキーの銘柄は数多とあるけれど、僕が気に入ってるのがタラモア・デューアイリッシュではジェムスンの2番手に位置する人気銘柄だそうだ。ピートを焚かないアイリッシュらしく、スモーキーさというのとはほど遠いけれど、なんというか豊かな穀物の味わいのある酒だ。友人に飲ませたら「麦焼酎じゃんこれ」と言っていた。ストレートはもちろん、これからの時期はお湯割りがいい。こいつをお湯で割ってやると、湯気の中に麦の香りがふわっと上ってきて、実に豊かな落ち着いた気持ちになれる。秋の夜長にうってつけな、そんな酒だと思う。
 それにタラモア・デューはコーヒーに合う。最近、アーマッドのイングリッシュ・ブレックファーストにドハマリしてがぶ飲みしている僕だけど、本来はコーヒー党だ。タラモア・デューアイリッシュコーヒーに最初に使われた銘柄だそうだけれど、生クリームなんかを用意するまでもなく、熱いコーヒーに垂らしてやるだけで美味いからずるい。永倉万治がバックパッカーをやっていたころ、アイルランド人のじいさんから習ったウィスキーの飲み方に、ストレートを呷ってから熱くて濃いコーヒーを啜ると「心に強い三角形」ができるというのがあった。それの変形というか亜種というか、そんな感じかもしれない。確かに心がしっかりとしてくる感じがする。件のじいさんはは確かジェムスンだった気がするけれど。

 ドギツいウィスキーが飲みたくなったとき、最近愛しているのがアイラ・モルトアードベッグ。バシバシに利いたスモーキーフレーバーと、激烈なヨードの香り。人によっては「病院の匂い」と例えるくらい、強烈な香りのあとからやってくるのは意外なほどの優しい甘さ。かと思えば、喉に落ちる瞬間ピリッと後味を効かせてくる。こいつをストレートでやるのも、夜を楽しんでいる実感がわいてくる。何なら、いまもやっている。午前中の10時過ぎだけど。
f:id:miko_yann:20201103102250j:plain
 そろそろ、冬がやってくる。夜はまだまだ長くなる。素のウィスキーもいいけれど、せっかくならば自分の作った模型を見ながら飲んでやりたい。いま、HOナローのレイアウトを作ろうと思っている。B4サイズの小さなボードの上に敷かれた線路を、自分で作った車両がぐるぐる回っていたらどれだけいいだろうかと思う。目の中に汽車を走らせても痛くない、とは内田百閒の言葉だけれど、それも何となく分かる。なんてことを考えてウィスキーを舐めているだけで幸せになれる。完成するのは、きっと当分先のことだ。
  

果物を食べる

 f:id:miko_yann:20200928120456j:plain
 果物を食べるというのは、まあ贅沢な行為だと思う。
 端的に言えば、値段が高い。経験上、果物の味というのは間違いなく値段に対して正比例する。高ければ高いほど美味いのだ。嘘だと思うんなら、スーパーに行ってバナナ売り場に行ってみればいい。そこにはいろいろな値段のバナナがある。1房100円未満のものから、その3倍以上もするものもあるはずだから、両方買って食べ比べをしてみるのだ。個人の好き嫌いというものは僕の知ったことではないが、少なくとも客観的な味というものはずいぶん違うはずだ。もし違いを感じないというのなら、それはあなたの舌が馬鹿だというだけの悲しい話だ。
 もっとも「経験上」と断ったのは、僕は別に石油王やお大尽の類いではないのでそこまで高価な果物は食べたことはない。銀座千疋屋の店先で木箱に入って売られているマスクメロンだとか、六本木のラウンジで太ももを露わにしたお姉ちゃんが隣りに座って薄い水割りなんかを作ってくれるお店で出てくるフルーツ盛り合わせなんていうのが目の玉が飛び出るような値段だというのは知っている。後者については知識として知っているだけで、そういうお店に行ったことがあるわけではない。「果物は高ければ高いほど美味い」という僕の理論が正しければ、そういう果物はそれはもう美味しいはずだ。美味しいから高いのではなく、高いから美味しいという話な気もする。ぜひ一度確かめてみたいところではある。できれば、僕の財布が傷まないような方法で。石油王やお大尽のお友達を、僕はいつでも歓迎している。

 それに、果物を食べなくたって死ぬということはない。言ってしまえば嗜好品なのだ。果物がない生活よりもある生活のほうがいい、というのは確かだけれど、それはあくまで生活における彩りの話だ。と、僕は思う。
 僕は貧乏性なので、どうせ彩りにお金をかけるのだったら、いいトマトを買いたい。なんせ、僕はわりと野菜を食べないと死ぬ方なのだ。
 世の中には、野菜を自発的にに食べない人間というのがわりと存在するらしい。なんとなく情報として知ってはいたけれど、そういうタイプの同居人たちを目にして初めて実感することになった。
 ビジネスホテルに泊まると、朝食バイキングというのがある。朝の7時位にフロントの脇のレストランに行くと、歯ごたえのあまりないタイプのソーセージや、やたらと脂ぎってピンク色のきついベーコンらしき何か、どこでこんなものが泳いでいるんだというような小さな小さな塩鮭の切り身なんかが保温されたプレートの上で我々を待っている。1升炊きの炊飯器で炊かれたご飯は妙にベチャッとグッチョリしてたりする。味噌汁の具は乾燥わかめと油揚げで、だいたい脇にネギが別に置かれている。そういうあれだ。
f:id:miko_yann:20200928120525j:plain
 その朝食バイキングに行くと、僕はもう皿に山盛りに生野菜を食べる。ドレッシングはだいたいかけない。ただひたすらにモサモサとキャベツやレタスの切れ端を食っていると、自分の前世が草食動物だったのではないかと思えてくる。隣のおじさんが呆れた顔で僕を見ていたことがあったが、思えば彼は野菜を自発的に食べないタイプの人間ではなかったか。皿にはソーセージが山盛りだった気がするし。まあ、バイキングというのは好きなものを好きなだけ食べられるというのが魅力だ。おじさんは山盛りのソーセージにケチャップをかけ、僕はそこで無味の野菜をしこたま食べるわけだ。

 果物に話を戻すが、そんなわけで貧乏性の僕が高級嗜好品の果物を食べるのはどんな時か。そう、それは貰った時に他ならない。
 我が実家には、果物を送ってくれる知人がいる。実家の母も果物を頻繁に買うような人間ではないので、果物を食べるチャンスというのはここに限られてくるわけだ。
 8月になると、実家に桃が届く時期になる。それも、福島と長野から別の種類の桃が届くのだ。桃なんて買ったら1個500円はする超高級品なので、届いたという連絡があるや否や僕はエコバッグ持参でいそいそと貰いに帰ったのである。
 福島の桃と長野の桃は、品種が違う。まずやってくるのが、福島の桃。これは「あかつき」という品種で、硬く、爽やかな桃だ。うちの母は「果物は硬ければ硬いほうがいい」という派閥の人で、柿なんかは柔らかくなったものは絶対に食べない。そんな母のお口に召したのがこの「あかつき」で、一般的な白桃とは違うザクザクとした歯ざわりが実に心地良い。実のところここ数年の福島からやってくる桃は当たりがなかったのだが、今年は硬さといい甘さといい文句なしだった。これが終わると、今度は長野から桃が来る。こいつは一般的な白桃で、ひたすらに甘く、ひたすらにみずみずしい。やはり食べ物を送ってくれる交友関係を大切にしよう、と決意を新たにさせるそんな桃なのだ。

 ちなみになのだが、我が同居人たちは自分で皮を剥く果物は食べない。買ってキッチンに置いておいたバナナだって食べないのだから、そういう主義なのだと思う。どんなものであれ、自分の主義を貫くのは立派なので何も口を出さずにいる。そのおかげで、実家から貰ってきた桃は、なんと全てが僕の腹に収まることになった。
f:id:miko_yann:20200928120544j:plain
 冷蔵庫の野菜室に、梨が冷えている。茨城県産の「豊水」で、これも甘さ歯ごたえみずみずしさのバランスが素晴らしいやつだ。「幸水」よりも僕は好きだ。当然ながら同居人に食われることはないので、当分は安心していられるだろう。

午前5時の小宇宙、松屋で朝定食を食え

f:id:miko_yann:20200701155124j:plain
 土曜の夜、高校来の親友と酒を飲んでいた。
 4月に都条例が改正されて屋内全面禁煙になったあと、なんやかんやで初めて「飲み屋」というところに行った。すると、路地に面した店なんかは外にテーブルを出している。ここなら煙草が吸えますよ、ということらしい。梅雨曇りの空の下、暴力的なまでの湿度に満ちた大気の底でサッポロ赤星をやりながらピースを吹かすのは悪くなかった。
 ところが2軒めとなると、これが中々見つからないのだ。その夜の赤羽はどこも妙に混んでいる上に、喫煙者二人のお眼鏡にかなうようなお店はかなり少ない。
 一通りウロウロしたあとで、「じゃあ、ウチ、来る?」となった。飲んでいるうちに、向こうの終電がなくなった。そんなわけで、野郎二人で朝まで酒を飲んでいたのだ。

 午前4時にもなれば、腹が減ってくる。別に朝飯の用意をしてもよかったのだけれど、ふと松屋に行きたくなった。正確には、松屋の朝定食が食べたくなった。

 僕は松屋の朝定食が好きなのだ。
 実家は6時過ぎには朝食が用意される家だったから、よほどのことがない限り朝食は家で摂る。すると、そもそも外で食べる朝食というのはもう非日常だ。朝、よほど家を早く出る必要があるとか、あるいは旅行の最中だとか。だから松屋の朝定食を食べるとワクワクする。普段の日常とは違う何かが始まる気がする。同時に僕は「日常」が好きな人間だから、そういうものから切り離されてしまうことにドキドキさえしてしまう。我ながら、松屋の朝定食でこんなに感情を持てるのだから幸せなんだとは思う。

 というわけで、松屋で朝定食を食べる。
 普段ならば迷いなくソーセージエッグ定食なのだけれど、何を思ったのか目玉焼きをダブルにしてみた。
 そして断言する。松屋の朝定食は、枯山水だ。午前5時の小宇宙は、このお盆の上で完成する。

 何を言っているのかと思われるかもしれないが、要は「松屋の朝定食には無限の可能性がある」「百人いれば百通りの食べ方がある」ということだ。僕はこれからめくるめく松屋の朝定食の世界をあなたにご覧進ぜる。心配しなくていい。僕はこれで、すでに2人も松屋の朝定食を食べたくさせたことがあるのだ。

 そもそも、松屋の朝メニューは5種類存在する。それに、選べる小鉢が4種類。この時点ですでに20通り。なんてことはない組み合わせですね。だがしかし、選べるというのはすなわちリッチだ。リッチは端的に幸福だ。もしも、あなたの後ろに誰もいないのであれば券売機の前で存分に悩むことができる。悩めるというのも幸せだ。そうでないならば、直感に従って決めるべきだ。先述の通り、僕はここではソーセージエッグ定食を頼む。そして選べる小鉢は、必ずミニ牛皿。この時点で迷わなくても、この先に沢山の組み合わせが待っている。松屋の朝定食は、間違いなく幸せに満ち溢れている。

f:id:miko_yann:20200701154951j:plain

 席について食券を渡せば、2分もせずにやってくる。そう、幸せの小宇宙だ。所狭しに並べられた小皿に並べられたおかずを見るといい。朝食にこれだけの品数を自分で用意する手間を想像すると、もはや感服の域にまで達してしまう。このあとの食べ方は、もう人それぞれだ。自由にやるといい。参考までに、僕の食べ方を教えよう。

 まずは、目玉焼きに添えられた生野菜。松屋ではいわゆるサラダのことを生野菜と呼ぶ。シンプルにして力強く、気取ったところがない素敵な呼び名だと思う。机の上には数種類のドレッシングが用意されているだろう。だがしかし、僕は味のついてない生野菜をモサモサと食べるのがわりと好きなタイプの人間だ。前世はラクダか何かだったのだと思う。そんなわけで、キャベツそのままの味を噛み締めながら、これから先の「戦術」を練るのだ。まあ、決まってるんだけど。

 このお盆の上で一番の強敵、それは海苔だ。あんなナリをしているが、実は味付け海苔ではない。味なし。プレーン。素海苔だ。一部の人にはこれだけでもう降参だろう。さらなることにこの海苔、ものすごく分厚くてコシがあるのだ。「パリパリ」という小気味いい食感とは無縁だ。ともすればカーボン紙を咀嚼するかのごと強靭な海苔だ。褒めてます。この海苔をどうするか、ここが松屋の朝定食に対峙するにあたっての最大の難関なのだ。

f:id:miko_yann:20200701155011j:plain
 僕の答えは、こうだ。味噌汁に入れる。松屋の味噌汁の実は、ワカメと油揚げだ。不満なんてものは全く無いが、もしももう一つ実があったなら?そこであの海苔だ。コシがある故に、味噌汁に入れても溶けてデロデロになることがない。僕はこれを発見したことで、松屋の朝定食がそれまでの何倍も素敵なものになった。松屋の朝定食についてくる海苔に困っているあなたにこそ、試してもらいたい。ちなみに隣の男は「好きだから」という理由で最後にバリバリと食っていた。松屋の朝定食の食べ方は無限大なのだ。

 隣にあるのが目玉焼き丼である。半熟の目玉焼きを白い飯に乗っけて、黄身を箸の先でプツッと割る。そこに醤油をピピピッと垂らすだけで出来る美味いものだ。これをワシワシと食い進めてく幸せが、午前5時の松屋にはあるのだ。
 しかしながら、これだけでご飯を食べ終わってしまってはいけない。選べる小鉢のミニ牛皿がある。貧乏性なので、せっかく松屋に来たのだから牛めしも食べたい。僕は牛丼を食べるならば、絶対に「つゆ抜き」を頼む。つゆだくを頼んだ隣のサラリーマンに驚愕の目で見られたことは数知れない。それでも僕はつゆ抜きを頼む。もう最後の一滴まで絞ってくれていい。丼もの全般でそうなのだけれど、底まで汁でビシャビシャになっていると無性に悲しくなってしまうのだ。お茶漬けなんかはそういうものとして食べることはできる。

f:id:miko_yann:20200701155033j:plain
 汚い写真で申し訳ないが、これが僕の牛丼の食べ方だ。紅生姜は具の一つなので、存分に入れるといい。汁を切った牛丼なので、紅生姜の味がぼけることがない。いつからか松屋はプレミアム牛めしに黒胡麻焙煎七味なるものをつけるようになったが、生憎僕は使ったことがない。机の上にあるボトルから、昔からおなじみの七味をふんだんにふりかける。そうしてまた、ワシワシと食い進めていく。味に飽きたら、残しておいたおしんこを挟む。そして牛めし。最高の一日が始まる予感がしてくるだろう。これでいて、500円でお釣りが来るのだ。

 お盆の上という限られた空間、そこにあるいくつかの小皿。それだけなのに、無限の楽しみ方ができる。これは、小石と岩だけで風景を表現してしまう枯山水に通じるものではないだろうか。故に、松屋の朝定食は小宇宙なのだ。360円で楽しめる小宇宙を、僕は他に知らない。

www.amazon.co.jp

梅雨が来て、夏が来る

 愛媛県宇和海沿岸で栽培されているミカンは、「3つの太陽」の恩恵をたっぷりと受けているという。
 1つ目の太陽は、当然空に輝くあの太陽。宇和海沿岸はリアス海岸のため、斜面が多い。燦然と降り注ぐ直射日光を、段々畑で効率よく受け止めることができる。2つ目が、海面で乱反射した日光。これが下からもミカンの木に当たるのだ。そして最後の太陽が、石垣だ。段々畑の土留めになっている石垣に、日光が反射する。それだけでなく、日中に直射日光を浴びて温められた石垣からジワジワと熱が放射され、夜間でもミカンを温めてくれる。こうして美味しいミカンが作られる。いやあ、このブログは勉強になるなあ。

 なぜ読者諸氏にこんな地理のお勉強をさせたかというと、僕の部屋にもこの「3つの太陽」がある。それ故に、もうとにかく暑くなる。これから夏というやつがやってくる。とにかく、今から憂鬱で仕方がないのだ。

 ところで暑ければ冷房をつければいいじゃない、というのはもっともだ。幸い、そういう文明の利器があることも知っている。湿度100%の夏の香港で、あいつから吹き出す冷風のせいでで凍えながら起床したことがある。香港では、冷房の設定温度というのは20度にするのが標準だ。常識的な店であれば、それは当然のサービスだと思われている。僕の泊まった重慶大厦の安宿でさえそうだったわけだ。

 でも、僕は冷房をつけたがらない。冷房をつけるなら死んだほうがマシ、などということは言わないけど。
 実家にいたころからそうで、「もう無理!!!」となるまでは窓を開けて風を通すことで乗り切ろうとする。最近扇風機を使いだしたらかなり快適で、まだしばらくこれで乗り切れそうだ。
 エアコンを使いたらがない理由の一つに、住んでいる家の電力容量がある。古い家なので、ブレーカーが30アンペア。これ自体はまあ普通ではあるのだが、現代に生きる3人の男が別々に生活することを考えるとかなり少ない。実際、ブレーカーが落ちた回数を数えるのをやめたくらい、ブレーカーは落ちている。どれくらいでブレーカーが落ちるかといえば、電子レンジと湯沸かしケトルを同時に使うともう危ない。ドライヤーも要注意。冬はファンヒータがかなり危険な存在だった。
 そして何より厄介なことに、3部屋で同時にエアコンを使えばブレーカーが落ちる。というかまあ、落ちた。何度も。なので、わりと速攻でエアコンを入れる同居人2人がエアコンを使っているとなれば、僕はエアコンを使えない。貧乏くじだとは思うが、これはまあそういう性分なので諦めている。僕はわりとそういうやつだ。

 僕の部屋は西向きだ。午後になれば、西日がカンカンに差し込んでくる。このおかげで冬はわりあい楽に過ごせたのかもしれないが、これからは地獄だ。いや、もうわかっている。去年もそうだったんだから。なにもしなければ、この部屋は午後にはサウナになる。この温度を何かに活用できないかと、本気で考えてしまうくらい暑くなる。これが1つ目の太陽だ。
 2つ目の太陽になるのが、僕の部屋の目の前にある石垣だ。今住んでいる家が斜面に建っているのは以前言ったが、そのために隣の家は石垣の上に建っている。石垣は南に向いているので、日にあたってたっぷりと熱を吸収している。そう、これが夜になっても熱をジワジワと放射し続けるわけだ。不幸にして僕はミカンではないし、変温動物のカメレオンか何かでもない。せめて、長毛種の犬なんかに生まれなくてよかったと何かに感謝をしながら、夏の暑さに耐えることを選ぶしか無い。

 そして、3つ目。これは実は去年まではなかった。今年生まれた太陽だ。人類の英知、地上の太陽。まあ、何かといえば新調したゲーミングPCだ。
 4月後半、僕はとにかく競馬で勝っていた。もう、めちゃめちゃ調子がよかった。僕は穴党であるから、「単」系の馬券が当たれば確実に5桁の払い戻しが望める。配当100倍以下って馬券なんですか?まあ、だから勝てないんだけどさ。
 皐月賞天皇賞(春)と連勝した僕の手には、それなりにまとまった金額のお金が入った。それこそ特別給付金とかいう、政府が税金を返してくれたにすぎないやつに並ぶくらい。そして、なんとタイミングがいいことにPCがオシャカになってしまった。入る金があれば出ていく金あり。無常である。どうせなら、ということでこのお金でPCを新調したわけだ。CPUにRyzen 7 3700X。グラボはGTX1660だけど750wの電源をおごったから拡張性に不安はない。メインストレージにM.2コネクタのSSD。すごいぞ、あの死ぬほど重かった『ARK: Survival Evolved』とかいうゲームだって最高品質グラフィックでサクサク動く。人類の英知!ありがとうお馬さん!これぞ人馬一体!!!
 そして、放熱が残った。
 PCがやる気を出すと、当然だが熱を発する。それこそ、ちょっとしたレトルト食品を置いておけばそれなりに温めてくれそうだ。すごい。ありがたい。でもこんな機能を頼んだ覚えはないんだ。
 無事に3つの太陽がすべて揃ったこの部屋で、僕は夏を迎える。今年の夏は誰も経験したことのない夏になる、と専門家が言っていた。どうやらこれは、間違いではなさそうだ。

アジサイを見る

 夏の前には梅雨が来る。東京は絶賛梅雨真っ盛り。毎日毎日ジメジメしており、自分が大気の底を這い回る生き物であることを否が応でも自覚させられる。せめて乾いたものを食べようと、ビスケットをかじる毎日だ。
 6月になった瞬間、アジサイがわっと咲きだした。家から駅に向かう途中には、そこかしこにアジサイが咲いている。これを見るのを、結構楽しみにして梅雨を過ごしている。
 よく見てみればアジサイにも色々あるもので、段々とキャラクター性が伝わってくるのだ。
f:id:miko_yann:20200624125302j:plain
 華やかでありながらも、清楚さ全開。これはすごい。今期ぶっちりぎの清楚枠だ。多分二次創作では安易に腹黒キャラやヤンデレキャラにされがちで、絶妙な火種になるやつ。公式が逆輸入してきたりしたらもう最悪。アジサイの中では一番のお気に入りだ。
f:id:miko_yann:20200624125714j:plain
 あらかわいい。小動物系ですよね。髪の毛はたぶんお団子。年少ながらも芯がしっかりしていて、中盤で主人公が挫折を乗り越えるエピソードでキーになったりする。
f:id:miko_yann:20200624130131j:plain
 クール高身長ポニテ枠。作中で女子人気が高い設定で、エロ同人の展開がワンパターンになりがちなやつ。実は気が弱く、子供の頃に憧れたお姉さん的存在を演じている。上の小動物系とのカップリングが王道。
f:id:miko_yann:20200624130814j:plain
 エロいお姉さん。これもう絶対そうでしょ。なんですかこの色気。擬人化とかするまでもなく、アジサイの状態ですでにエロじゃん。愛のない脚本家に年増イジリされがちで、ファンからは死ぬほど嫌われている。

 心配する人もいるかもしれないけれど、まあ元気です。疲れてはいるけど。
 6月になって仕事が再開になりまして、ありがたいのですが料理をする気はさっぱり起こらないでいたために料理コーナーは今回もお休み。でもまあ、またボチボチ作り始めてはおります。世の中には、料理を作る人と作らせる人しかいないのだ。