濹堤通信社綺談

江都の外れ、隅田川のほとりから。平易かつ簡明、写真入りにて時たま駄文を発行いたします。

ぼくが飯を作る理由

 飯に飽きた。

 別に、食べるのに飽きたというのではない。自慢ではないが、僕は食いしん坊な方だと思う。食べる、という行為に対してはかなり貪欲だし、できることならば美味しいものが食べたい。今だって食べたい。だいたい、いつだって食べたい。
 当然、体調が悪くて食欲がないというのでもない。メンタルも同様。実は去年の冬にうつ状態になったりもしたのだが、その時はてきめんに飯が食べられなくなった。ひもじい、寒い、もう死にたい。不幸はこの順番でやってくる。これは僕の場合には全くそうだったので、飯を食べたくない時は気をつけるようにしている。
 では何なんだというと、自分の作る飯にすっかり飽きちゃったのである。

 「家にいやがれ」と政府や役所が言っているのでという訳でもないが、ここのところはほぼ家で飯を食べる。外に出たってお店が開いていないのだから、当然そういうことになる。緊急事態宣言が出てからほぼ1ヶ月、毎日毎日だ。
 これは前にも言ったのだが、僕は今、男3人で暮らしている。去年の夏からそういうことになったわけだが、驚くべきことに僕は他の2人が作った飯というものを食べたことがない。するとまあ成人男性3人前の飯を、僕だけが作っているわけだ。毎日。ここ1ヶ月は下手したら1日3食。いやはや、もう立派なおさんどんだ。
 ただまあこれ、別に愚痴というわけでもないし、非難するつもりもない。実は僕が3人分の飯を作っているのは、僕が勝手にやっていることにすぎないのだ。他の誰に頼まれた、というのではない。そういう役割が、この「シェアハウス」で決まっているのでもない。事実上そういうことになってしまっている気はするが。重ねていうが、愚痴ではない。

 ところで、僕は食べ物について好き嫌いというものがない。全くと言っていいほど、無い。
 偏食ではない、というどころではない。当然ながら、嫌いな食べ物というのは無い。なんでも食べるし、世間一般ではゲテモノと言われるようなものでも食べる。先述の通り食いしん坊なので、食に対する好奇心は旺盛だ。
 問題なのは、「好きな食べ物」というのも無いのだ。世の中には「これだけ食べていればいい」というくらい好きな食べ物がある人がいる。例えば同居人の1人はカレーがめちゃくちゃに好きで、多分毎日カレーでも文句を言わないのではないかと思う。
 僕の場合はそれがない。すると何が困るって、同じものを食べ続ける、ということがとにかく苦痛になってくるのだ。

 フォロワーに、外食以外では毎日同じものを食べ続けていた人がいる。「楽でいい」というのはそうだろう。
golem-inc.fanbox.cc

 でも、僕にはできない。断言するが絶対に無理だ。というか、無理だった。めちゃめちゃに忙しく、昼食を考えるのが面倒くさくなり、コンビニでミックスサンドとチョコオールドファッションドーナツを食べ続けていた時期があった。結果、病んだ。まだ実家に住んでいた頃で、朝晩は違うものを食べていてもダメになった。
 毎日の献立を考えるのが、面倒くさくなるときというのはある。自分が何を食べたいのかよくわからないこともある。それでも、過去数日の献立、冷蔵庫の中身、スーパーマーケットの値札、そういったものとにらめっこをした挙げ句、献立が組み上がっていくのは楽しい。ある種の快感だ。しかしながら、それすらも億劫なときでも、同じものを食べるくらいなら僕は献立を考える。こういうところが、僕が食いしん坊たる所以なのだろうと思う。

 そんなわけで毎日毎日献立を考えて、あれやこれやと飯を作っている。その一部は当ブログでもご紹介しているので、わかっていただけると思う。
 すると外食の機会がそうそう無いこのご時世、どういうことが起きるか。最初に言ったとおり、自分の飯に飽きちゃったのだ。

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 ということで、今日の昼は外食をしてきた。
 「家にいやがれ」ということなので、遠出はできない。幸いなことに、我が家から一番近い飲食店は純然たる「町の中華屋さん」だ。
 日替わりのAセット、税込みで800円。今日はレバーの唐揚げ。これは嬉しい。レバーの唐揚げは僕の好物だし、これは家では作らない。揚げ物は面倒だし、レバーの下処理も面倒だからやらない。そのうちやるかもしれないけど。
 「町の中華屋さん」ならではの、油とうま味調味料たっぷり目のの味付けがたまらない。脳にドバドバと「汁」が出てくるのを感じる。この味は自分では絶対に作れない。いや、作らない。
 隣のおじさんがビールを頼む。そうだよな、世間は連休の最終日だもんな。俺はまだ仕事がないから家にいるけど……
 徒歩3分、高々800円で随分と刺激的な体験をすることができた。ということで、僕はまた飯を作る。今日はパエリアだよ。

 以下、料理。
 だんだんと飯に飽きているため、暇に任せて凝ったものを作ったりしている。

おうちカレー

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 カレーは、足し算。何を入れたっていいし、入れれば入れただけいい。どうせ最後は「カレー味」になるんだから。
 ということで、市販のルーにスパイスをぶち込んだ。トマト缶も加えたし、ウスターソースも入れた。よくわかんないけどインスタントコーヒーも入れてみた。
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 僕は東京の人間で、両親も関東出身だ。家系を見てもずっと関東。でも、カレーは牛肉だ。豚肉のカレーというのを家で食べたことがない。どうせカレー味になるのだから、アメリカ産だかオーストラリア産だかの一番安い切り落としを入れている。精肉売り場で和牛の牛脂を貰ってきて、それで炒めれば十分だ。玉ねぎ、じゃがいも、にんじん、それにズッキーニとしめじ。何でも入れてしまえばいいのだ。
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 結果、ハチャメチャに美味いカレーができる。もう一度言う。カレーは、足し算だ。

しょうが焼きと、ホタルイカのぬた ズッキーニ浅漬け

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 しょうが焼きの玉ねぎはケチらないほうがいい。というか、玉ねぎの方が主体だ。豚肉は玉ねぎに旨味を吸わせるためにある、といっても過言ではない。それくらいしょうが焼きにおける玉ねぎは大きな存在だ。同じ皿に乗ってるのはコールスロー
 今年のホタルイカは美味しいらしい。実際、美味しかった。酢味噌和えにしてしまったのが、少しもったいなかったかもしれない。
 ズッキーニの浅漬けは『きのう何食べた?』で知って以来よく作っている。キュウリよりも優しい歯ざわりで、中々に美味しい。バリバリ飯を作っているせいで、段々自分が筧史朗めいてきているような気がする今日このごろ。僕の見た目は若先生ですが……

スモークサーモンのサンドイッチ

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 土曜日は、こういう朝ごはんで始めたい。仕事のない土曜日の朝に、コーヒーを入れるためにお湯を沸かしている時間というのが、僕は一番好きな時間かもしれない。というか、お湯を沸かすというのは良い。お湯を沸かしたあとで、嫌なことが待ち受けているというのはあまりないだろう。
 頼まれもしないのに、3人分のサンドイッチを作っている。いやでも、スモークサーモン余らせたってしょうがないじゃない。オニオンスライスも、ねえ。

たこパ

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 連休なのにどこにも行けないかわいそうな我が家の男たちのため、たこ焼きパーティーを開いた。せっかくなので変わり種として、イナゴの佃煮を入れてみたりもした。これが案外美味しい。ぜひお試しあれ、とまでは言わないが。
 刺し身とビールがあるのは、臨時収入があったため。予想通りに走ってくれたお馬さんに感謝である。皐月賞天皇賞(春)でね、連勝したんですわ。ウェッヘッへ。かしわ記念のことは聞かないように。
 それにしたって、競馬場に行きたい。いつの日かまた、そんな日々が来ますように。

僕はなぜ神谷奈緒とメヒコでフラミンゴを見ながらカニピラフが食べたいのか

 神谷奈緒とメヒコでフラミンゴを見ながらカニピラフが食べたい。

 と、いうようなことを僕は数年前から公言している。戯言、妄言の類いだと思っておられる方も多いかもしれない。神谷奈緒と、カニピラフ。メヒコで、フラミンゴ。これらの単語が即座に結びつく方はそう多くはないだろう。いや、ない。多くあってくれたらそれはそれで困る。神谷奈緒とメヒコでフラミンゴ見ながらカニピラフ食べたい、などと言い出すやつが世界で僕の他にいるというのも、それはそれで恐ろしい。
 変なオタクが変なことを言っている、という認識で間違ってはいないのだが、根拠のない妄言というわけではない。少なくとも、僕の中には神谷奈緒とメヒコでフラミンゴ見ながらカニピラフを食べたい理由がある。僕がいかに変なオタクと言えど、なんの根拠も理由もなしに17歳の少女を、フラミンゴが店内で飼われている福島茨城ローカルのファミレスに連れ込んで、自分で殻をむかなければいけないカニピラフを食わせようとするほどの異常者ではない。そんなやつが世界にいるとしたら許せない。
 では、なぜ僕は神谷奈緒とメヒコでフラミンゴを見ながらカニピラフを食べたいと思うのか。その理由を明らかにしたい。お気づきかもしれないが、今回は徹頭徹尾怪文書である。

youtu.be

 神谷奈緒については、まあ割と説明はいらないかもしれない。『アイドルマスターシンデレラガールズ』シリーズに登場するアイドルである。千葉県出身の17歳。やたらと毛量のある髪を前でぱっつんに切り揃え、その下には太めの眉毛が覗いて可愛らしい。「正統派ツンデレ」と言われるほどにわかりやすく恥ずかしがりのキャラクターであり、最初は嫌そうなことを言いつつも段々とアイドル活動に前向きになり、輝きを見せるさまはまさにシンデレラガールである。ちなみに趣味はアニメ鑑賞。かわいいね。一緒に銀河英雄伝説を見よう。なんだこれ。多分、神谷はミュラーが好きだと思う。それかワーレン。

 とまあ、ここまでは神谷奈緒を知っている方にとっては疑念を挟む余地のない共通認識だと思う。じゃあ、ここからは?僕の感じる神谷奈緒の持つ魅力についてだ。
 神谷奈緒というのは、なんというか「近さ」のあるアイドルだと思う。「近そう」でもいい。もちろん架空の人物であるから存在などしないのは当たり前なのだが、もしも存在したら実はとても近くにいるのではないか、そんなことを思わせる。「会いに行けるアイドル」というのが言われるようになって久しいが、神谷奈緒には会いに行く必要がない。会いに行けないけど。でも別にいい。だって、ほら、そこに神谷いるじゃん。

 なので、神谷奈緒にはしっかりとした日常があってほしい。しっかりとした日常を感じさせてくるのだ。家は馬橋で、千代田線直通の常磐緩行線で通学している。新御茶ノ水中央緩行線に乗り換えるから、10号車に乗りたいけど死ぬほど混んでいるから8号車の後ろよりに乗るようにしている。松戸始発の電車を狙うこともあったけど、最近は面倒くさくてやめた。とか。神谷奈緒が毎朝、新御茶ノ水のあのクソ長いエスカレータに乗っているところを想像してみなさい。間違いなく、イヤホンをしている。手に持っている単語帳は何だ。DUOではないだろう。シス単か。どうだ、容易に想像できるだろう。僕は神谷奈緒の、そういうところが好きなわけだ。

 神谷奈緒について蛇足のような説明をしたところで、多くの人が疑問を持つのはその先だろう。

 メヒコって、何だ。

 フラミンゴがなぜ出てくる。

 なぜカニピラフなんだ。

 神谷奈緒と、どう関係があるんだ。

 それらを全て明らかにしてやる。

 そもそもからして、メヒコをご存じない方が多かろう。メヒコは、主に福島県茨城県に展開しているシーフード料理主体のレストランだ。東京都にも数店舗ある。
www.mehico.com

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 メヒコの看板メニューといえばカニピラフだ。ズワイガニが殻付きのまま「ドン」と乗って出てくるそれは、見た目のインパクト抜群。これをほぐしながら食べるのだ。かつて同居人に「嫌がらせピラフ」と言われたことがある。殴るぞ。ほぐしてから出してもらうこともできるのでご安心を。でもやっぱり、殻付きの方が「メヒコのカニピラフ」という感じがする。
 そしてメヒコといえば、フラミンゴだ。何を言っているか意味不明な人も多いかと思うが、メヒコといえばフラミンゴなのだ。
 メヒコの店舗には、「フラミンゴ館」と名前のつくものが存在する。なんとこのフラミンゴ館、店内でフラミンゴが飼育されている。そう、鳥の。ピンク色の。冷えるから片足で立ってる、あいつ。正気か。
 というわけで、メヒコではフラミンゴを見ながらカニピラフを食べることができる。はい解決。やったね神谷。メヒコでフラミンゴ見ながらカニピラフ食うぞ。

 僕は幼少期に福島県の郡山に住んでいたことがある。2歳から、幼稚園の年中まで。北千住に来たのは実はその後だったりする。母方の実家はずっと千住だったけど。
 そんな頃の思い出に、メヒコに行ったことがある。メヒコ郡山フラミンゴ館。当然、フラミンゴがいるわけだ。フラミンゴを見ながら食事をする。これはもう、端的に超絶体験だ。ちなみに妹はこれをきっかけに首の長い鳥全般が生理的に嫌いになった。
 メヒコというのは、価格帯としてはいわゆるファミレスよりも少し上だ。かといって、寿司やすき焼きのように完全にハレの食事の場というわけでもない。日常の延長線上に存在する、フラミンゴつきの異常空間。そんな魅力に溢れたところがメヒコだ。
 神谷奈緒の魅力とは、近さだ。確固たる日常があり、それは当然自分の日常ともリンクする。そんな日常の延長線上にある「異常」を、一緒に体験したい。
 だから、僕は今日も言うのだ。
 神谷奈緒とメヒコでフラミンゴを見ながらカニピラフが食べたい。

 以下、お料理のコーナー

からしなます

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 新潟県は南魚沼の郷土料理である。
 僕はよく「母方の田舎が南魚沼」というようなことを言っているのだが、まあ当然これは嘘だ。母親が家族ぐるみの付き合いをしている友人の出身が南魚沼の塩沢で、その影響でよく塩沢に行ったりする。南魚沼の物を買ってきたり、南魚沼の料理を作ったりする。そういうわけで僕のレパートリーの中にも、この南魚沼の郷土料理が存在しているという訳だ。

www.shokumachi-uonuma.jp


 ざっくりした作り方としては、水で戻した切り干し大根に、練りごまと練りからしを合える。練りごまは、ぜひとも欲しい。でも無ければ、最悪ごまドレッシングでもいける。別物になるけど。練りからしは、「こんなに入れていいの!?」と引くくらい入れるのがコツだ。大丈夫。思ったよりも辛くならない。
 保存も利くので、一風変わった常備菜にいかがだろうか。暑くなるこれからの時期向けの料理だと思う。ちなみに、キリッとした新潟の酒に合わせると最高だ。鶴齢とかがいいですね。

とりすきと、翌日のおから

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 愛すべき友人から誕生日プレゼントとしてもらった京野菜の中に、よさそうなネギと春菊があった。それにしめじも。となれば、すき焼きをしたくなるのが人情だろう。
 すき焼きがしたくとも、牛肉を買う金はない。すき焼きだけは安い牛肉で作ってはいけない。となると、鶏肉の出番になるわけだ。
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 すき焼きをしたら、翌日におからを煮る。これはどうも我が家に独特の風習らしい。肉やらネギやらの旨味が出た割り下を捨てるのはもったいない。そこでおからを煮ると、その旨味が見事なほどに染み込んでべらぼうに美味いおからになる。ぜひお試しあれ。

おうちハンバーグ

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 ハンバーグは買ってきたほうが早い。そりゃあそうだ。ではなぜ、人は自分でハンバーグを作るのか。僕の理由は、「具材が粗いハンバーグが食べたい!」だ。あとは、ハンバーグがでかいと嬉しい。
 粗挽き肉に、粗みじんにした玉ねぎを生で入れる。食べていて食感が嬉しいハンバーグになる。玉ねぎを炒めないぶん、調理手順の短縮にもなるので言うことなしだ。パン粉がカビていたので食パンをちぎってつなぎにしたのも、良い判断だったと思う。
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 ソースは焼いた際に出た肉汁に赤ワイン、ケチャップ、ウスターソースを入れて煮立たせただけのものだが、同居人たちには「デミグラスソースだ!」と喜ばれた。洋食屋のデミグラスソースとしては全く間違いではない。

端っこと境目

 「橋ハ端ッコ、坂ハ境ヒ目」という言葉が、塚原重義監督のアニメ『端ノ向フ』に出てくる。
 橋にしろ坂にしろ、異なる2つの場所を繋ぐものである。その意味でまさしく「端っこ」であり「境目」というのは的を得ているだろう。
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 僕の実家というのは足立区のいわゆる「北千住」と呼ばれるところだ。なぜ「」つきで書くかというと、実は北千住という地名は行政区画の上では存在しない。荒川区にある南千住と異なり、本当のところは方位をつけず単に「千住」という。
 この千住というところは、実はどこに行くにも橋を渡らなければならない。北を荒川放水路、南を隅田川に挟まれた大きな中州のようになっているのが千住というところだ。
 どこからどこまでを「地元」というかにおいて、僕の中で境界になっているのは間違いなく川であり、橋だ。橋を渡ると隣町。千住大橋ならば南千住だし、千住新橋だったら梅田・五反田。西新井橋に尾竹橋、堀切橋に綾瀬橋。
 地図の上では小台や宮城、それに新田といった、千住と同じように荒川放水路隅田川に挟まれた足立区の地区には橋を渡らずとも行くことができる。しかし、これらの地区は交通の点では王子や赤羽といった北区の駅との結びつきが強く、千住に育った僕からしたら地域としての連続性に乏しく思える。
 小学生の頃、橋を渡るというのは一大イベントだった。いや、電車で塾通いをしていたから日常的に川は渡っていた。徒歩、ないし自転車で橋を渡って隣町に行く、というのが間違いなく冒険だった。
 特に区を跨いだ時は軽い異世界旅行だ。すぐ隣のはずの荒川区墨田区でも、自分の住んでいるところとは何かが、何かが違う。それは、街中に貼られている選挙ポスターの顔ぶれだったり、看板の隅に描かれている区のシンボルマークだったりする。全体的には見慣れた東京の「下町」の景色のようで何かが違う、というのは、なんとなく夢の中にいるようで心がざわついたのだった。この心の引っ掛かりは、僕にとって色々なところに影響を及ぼしているような気がする。


 冒頭で紹介した『端ノ向フ』でも、橋を渡ることは大きな意味を持つ。その意味とは何なのか、本当にいいアニメなのでぜひとも視聴した上で見つけてみてください。ちなみにこの作品の舞台、僕の実家のすぐ裏で、まさしく僕にとっての「橋の向こう」だったりする。
iyasakado.official.ec


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 さて、橋に対して坂というものを意識するようにったのは結構遅い。何せ、千住というところには坂らしい坂が全く無い。沖積平野だからね。
日常的に坂というものに触れるようになったのは、中学に入った頃だと思う。僕の通った中学・高校というのは港区元麻布の高台にあって、どの駅から通うのにも坂を登らなければならなかった。最寄り駅とされているのが日比谷線の広尾で、そこからは南部坂や北条坂をえっちらおっちら登っていくのだ。坂がないところで育った僕は次第にこれが嫌になり、一番坂がゆるやかな六本木で電車を降りるようになった。僕がよく人に「毎朝六本木ヒルズを通って通学していた」というのの理由である。
 とまあ、こんなふうに日常的に坂に触れるようになって気づいたことに、「都会の坂には名前がついている」というものがある。これは僕にとっては新鮮なものだった。
 先に上げた北条坂・南部坂というのは、どちらも江戸時代に付近に大名屋敷があったことに由来する。ここから、麻布一帯の高台が武家地として利用されていたことがわかる。坂に注目して歴史地理学めいたことをする、というのがちょうど流行っていた時期でもあった。
 開放河川という視覚的に実に明確な境界をまたぐ橋に対して、坂が2つの地域を繋ぐ様子というのは実にゆるやかだ。小さい、短い坂ならばささやかなものと言いかえてもいい。でもまあそれが坂の良さなのかもしれない。
 
 今住んでいる家というのは、まさに坂の途中にある。斜面に建っている一軒家だ。
 ここに住むまで、赤羽という街に対するイメージは主に飲み屋の多さだった。安くて美味い飲み屋がいっぱいあって、午前中から酒が飲める。『孤独のグルメ』で描かれていたあれだ。
 現在の同居人の一人となる男から場所を教えられ、初めて家に来たときは驚いた。赤羽はこんなにも坂が多いところだったかと。前述の飲み屋街は赤羽駅の東口なのに対して、今の家は西口にある。こちら側はまさに武蔵野台地の端っこで、平野と台地の境目なのだ。GoogleMapの教える最短ルートは、ヒトデの腕のように伸びた台地をいくつも跨ぐものだった。ふと視界が開けると、眼下というほど下でもないところにべったり屋根が張り付いているのが見えて、違う街に住むのだという実感が沸々とわいた。
 坂を登りきると、そこはちょっとびっくりするほどのお屋敷街だった。坂の下と上で、家の大きさが全然違うのだ。つまり「ああ、坂は境目なんだ」と初めて理解ができたのは、実はけっこう最近のことなのである。

 以下、お料理のコーナー

ガンボライス その他

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 ガンボというのは、まあざっくり言えばルイジアナ州のオクラ入りトマトスープである。スパイスをガッツリ使ってとろみがついているとなれば、ご飯に合わないわけがない。実際カレーやハッシュドビーフと同じ感覚で食べることができる。これから夏にかけてオクラが安くなるかと思うので、カレーに飽きたらぜひおすすめ。作り方は以下。
 


 左にしいたけが写っているが、大きなしいたけを焼いただけのものに醤油を垂らしてかぶりつくというのはいい。端的に幸せだ。ツナマヨを盛って焼くのもひとしおだ。この美味さを味わえないのだから、しいたけ嫌いの方は人生の40%を損していると言っても過言ではない。これは冗談ではないのだ。

ボウルに一杯のポテサラ

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 僕の作るポテトサラダは、じゃがいもを酒瓶で潰している。今回は黒霧島だった。別に銘柄にこだわりはなく、手近にあるものを使うだけだ。
 同居人が買ってきてくれたポテトマッシャがどうにも使いづらく、酒瓶にビニール袋を被せた物の方がはるかに具合がいいのだ。味付けは、ほぼマヨネーズ。甘いポテサラが嫌いなので、砂糖はほんの少しだけ。

パンプディング

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 まあ要するに、フレンチトーストの寄せ集めバージョンみたいなものだ。冷凍庫に残った食パンが余っていたので、それらを一掃するために作った。月曜の朝に。結局のところ、暇で暇でしょうがないというわけだ。

春はたけのこ

 仕事がない。いやまったく、困ったものである。
 すべてはあの、忌々しいCOVID-19とやらのせいである。僕はいわゆる教育業界で飯を食っているため、その影響で今は仕事が一切ない。今後どうなるのかもわからない。考えたってしかたがないので、僕は早々に気持ちを切り替えて家事に勤しんだり、引っ越し以来封印していた模型いじりを再開したりしている。
 いつの日かまた競馬場で大声を出したり、飲み屋で馬鹿話をしながらレモンサワーをひっくり返したり、カラオケでBe My Babyを踊り狂える日が来るのだと信じるしかない。全ての戦う人々に敬意を、困っている人に連帯を示したい。政府は税金を返せ。
 
 終わりの見えない異常事態の中で、それでも日常を生きていかなければならない状況というと、やはり内田百閒の『東京焼盡』を思い出してしまう。今の情勢を軽々しく戦時中と比べるべきでないという意見もあるかもしれないが、それでもやっぱり思わずにはいられない。
 『東京焼盡』は戦時中の百閒の日記をベースとした、暮らしの記録である。百閒らしく、食べ物、酒、そして煙草にまつわる話に溢れている。
 百閒の書く、食べ物の文章が僕は好きだ。『御馳走帖』という食べ物・酒・煙草にまつわる話をまとめた百閒の随筆集がある。もしも無人島に1冊しか本を持っていけないのだとしたら、僕はそれを選ぶと思う。それくらいの「好き」だ。なぜこんなにも好きなのか考えたところ、思うに百閒が「美食家」ではないからだと思う。
 百閒は「美味しいもの」が好きというよりは、「自分の好きなものが好き」という人だと思う。「好きなもの」を「愛するもの」と言い換えてもいい。実は美食家という人たちのことをよく知らずに苦手意識を持っているのだが、「かまぼこの板に包丁を立ててがりがり削ったものに生姜醤油をかけたもの」に対する愛を語る人のことを美食家と言うだろうか。言うのならごめんなさい。ちなみにこれは、『御馳走帖』の中の一編に登場する。本当におすすめな本です。
 食べ物以外にも鉄道・小鳥・猫など、百閒の随筆の中には自分の好きなものに対する愛が溢れている。百閒は間違いなく、愛に溢れた人だ。好きなものを好きと言えるのは大事だし、なぜ好きなのか、どう好きなのかを語れたらかっこいい。僕はそのへんがわりと苦手なので、もっとかっこよくなっていきたいと思ってはいるのだ。
 
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 今日は、天ぷらを揚げた。実家を出て自炊をするにあたって立てた自分ルールの一つに「揚げ物をしない」というのがある。実際、8ヶ月の自炊生活で揚げ物をしたのは今日で3度目である。
 なぜその誓いを破ってしまったのかというと、なんと京野菜が届いたからだ。段ボールで一箱。たけのこ、たらの芽、こごみ、エトセトラエトセトラ。ワオ。ワオワオワオ。これはもう、天ぷら以外にどうしろというのだ。だって、たらの芽って天ぷら以外にどう食べたらいいのか知らないもん。実際何かあるんでしょうか。
 単純に面倒くさいがために揚げ物をしたがらなかったのだが、天ぷらというものがこんなにもテンションの上がるものだとは知らなかった。テンアゲだから天ぷらというのは、古くは江戸時代から言われている。嘘だけど。煮えたぎる油にタネを落として、ショワショワと揚がってゆくところを見ているのは実に景気が良い。今の天ぷら粉はすごいので、袋に書いてあるとおりに作るだけでちゃんとした天ぷらが出来上がった。ちょっと本気で揚げ物環境を作ることを決意させるくらいの魅力が天ぷらにはあった。
 春はたけのこ、とは清少納言も言っていない。でも、新物のたけのこが来たのに、たけのこご飯を炊かないというのは嘘だ。これに加えて菜の花のおひたしも作ったら、もう完全な春御膳である。新橋と銀座の中間くらいの薄暗いお店で食べたら9000円くらいするかもしれない。食べたこと無いけど。
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 しかし、よくもまあ自炊歴8ヶ月でここまでするのだと、我ながら呆れるところも無いではない。

 京野菜は、愛すべき親友からの誕生日プレゼントである。親友の友人に京都の八百屋がおり、そこから送ってもらったものだ。持つべきものは友である。いや本当に。
 最近は色々な物の入手に「伝手」を使うようになってきた。マスクは歯科衛生士の母親から入手したものだし、米だってこれまた素晴らしい友人が30kg担いできてくれた。持つべきものは実家が農家で釣りが趣味の友人である。いや本当に。
 それにしても30kgの米が家にある、というのはいい。わかりやすい安心感がある。ただ、伝手で手に入れた米というのもいよいよ戦時中じみてきたな、と思うのも事実である。明日もまた、この「ヤミ米」を食べて生きていく。

 あ、ちなみに僕の誕生日は4/25です。なにとぞ。


 以下は、前回の更新以降作った料理の中で、評判の良かったものや書きたいものについて書くコーナーである。定番化するかもね。

キノコのポタージュ

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 実家に帰ったら立派なブラウンマシュルームをせしめることができたので、フードプロセッサで砕いてポタージュにした。生クリーム使ってないけど。
 フードプロセッサというのは本当にすごい。発明者はちゃんと歴史に名を刻まれているのだろうか。こいつがあると無いとでは、調理の効率が段違いだ。あってよかったフードプロセッサ。ちなみにこれは同居人の持ち物だが、そいつが使っているところは見たことがない。

春キャベツのもつ鍋風炒め

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 春キャベツ、ニラ、玉ねぎをにんにくと中華だしペーストで炒め、仕上げに醤油とゆずこしょうで味付けする。味はほぼもつ鍋。実際、材料がもつ鍋だもんね。「二次会にお誂え向きな宮崎コンセプトの居酒屋の定番メニューにありそうなノリのもの」とは同居人の談である。

カツオのたたきと新たまねぎのサラダ 甘藷と鶏ひき肉の煮付け

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 「今カツオがうまい」というので買ってみたが実際美味しかった。春は新玉ねぎをモリモリとたべなければいけない。食べなければいけないものが多いのが春である。
 同居人の実家ではさつまいもをおかずに仕立てる文化がなかったらしく、新鮮な味だったらしい。醤油で甘辛くなってれば何でもおかずになっちゃう、というのは僕が純粋培養の関東人だからかもしれない。カレーは牛肉だけど。
 
 

暮しの手帖

 引っ越した、というのが去年の8月のことである。
 このブログの前のエントリが2018年の9月。北海道で地震に遭遇して、東京までほうほうの体で帰ってきたときの話だから、いやまあずいぶんと放置したものである。
元来筆まめな方では全く無いし、放置している間に色々とあったのもまた事実。知っている人は知っているし、言うかもしれないし言わないかもしれない。
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 と、いうことで引っ越したのだ。北千住から赤羽へ。荒川を少し遡った。
 移動としては大した距離ではないのだが、僕にとってはとてつもなく大きな意味のある引っ越しだ。
 なにせ、初めて実家を出たのだ。

 今は、武蔵野台地の端っこにへばりついた一軒家を借りて、男三人で暮らしている。
 人には「シェアハウス」と横文字を使って説明するが、住んでいる実感としてはいわゆるそういう感じはしていない。
 漢字で書けば「雑居」だが、これではトイレに行く際に「願いまーす!!!」と声を張り上げていたり、春雨スープに入った肉の量を比べて「ビューだよ。ビューだよ。」などと言っていそうな感じになってしまう。第一、雑魚寝をしているわけではない。
 かといって「同居」という感じでもなく、ましてや「同棲」では決して無い。まあなんというか、結局のところ「一緒に住んでいる」と言うしか無いような暮らしだ。
 8ヶ月、そんな暮らしをしてみて……ごめん、嘘。ほんとは最初の2週間くらいで気づいたことなのだが、僕はかなり「暮らし」が好きらしい。
 「ていねいな暮らし」をしているつもりは全く無いし、まあしていない。それでもやっぱり、他の二人を見ていると逆説的に「俺は暮らしが好きなんだな」と思わされるのだ。これは別に同居人の「暮らし」に対する解像度の低さを責めるものではない。いやまあ、最初はあれだったけど、もう慣れた。冷蔵庫に塩が入っていた時はクソでかいため息をついたけど。

 考えてみれば、もしかしたら「暮らしが好き」というのは僕にとってかなり根幹を成すものなのかもしれない。
 子供の頃は、かなり「おままごと」が好きな子供だった。妹に買い与えられたはずのおままごと用のおもちゃを、熱心に遊ぶのはだいたい僕の方だった。
 「知らない土地に住んでいる人が、自分とは別の暮らしをしている」ということに対する興味は、趣味のローカルCM視聴から、大学で人文地理学を専攻するところまで様々なところに影響を及ぼした。
 僕は交通機関、特に鉄道が好きなのだが、それらの何に魅力を感じるかといえば「土地と土地を繋ぎ、人や物を運ぶことで生活を支える」ことである。
 僕からしてみたら人間というのは「暮らす」生き物であり、そうでない存在には苦手意識や嫌悪感を覚えることすらあるくらいだ。

 そんな僕だが、実家にいるときはといえば別に家事をしていたわけではない。ハイパー家事できる人間である母がいたからだ。そう、毎年クリスマスになるとシュトレンを焼くうちの母である。
 実家を出る前、母は僕の生活能力を全く疑問視していた。まあ、無理もない。実家における僕の部屋といえば、まあひどい有様だったのだから。良く言えば大学の教授室、悪く言えばゴミ屋敷といった具合に散らかり放題だった僕の部屋を散々見てきた母に、息子の生活能力を信じろというのはそりゃあ無理だ。まあ今の部屋だって相当に散らかってはいるのだが。

 引っ越してから2週間くらい経った頃だったか、実家に帰った際にふと母に聞いたことがある。
 「ふきんをハイターに浸けるのって、どのタイミングでやるの?」
 我が家では、使用したあとのふきんを台所用漂白剤に一晩程度浸け置きしてから洗濯する習慣がある。このやり方について聞いたところ、僕の生活能力に対する母の見方がガラッと変わった。「あ、こいつ、私のやっていることを案外ちゃんと見ていたんだな」となったのである。
 「見えない家事」という言葉があるが、実際にはそんなものはない。見ていないか、見ているか。「暮らし」というのは、実に様々な家事に支えられている。そういうものにある程度気づけていたのは、間違いなくプラスだった。そう思って、今日も寮母さんさながらに男3人分の食事を作っている。

 去年の秋、同居人の一人と「見えない家事」についての話をしていた。
 僕は換気扇の下で煙草を吸っていて、そいつは隣の流しで飲み終わった牛乳のパックを手で引きちぎっていた。
 おいおい、牛乳パックというのはな、洗ってな、キッチンばさみでこう切り開いてな、乾かして回収ボックスに持っていくんだ。お前の目の前に俺がそうやって開いたパックが溜まってるだろ。
 最近、ちゃんとハサミを使うようになった。人というのは成長する。まだ切り方は甘いけどね。

北海道から帰ってきた話

 去る2018年9月6日、北海道胆振地方中東部を震源とする最大震度7の大地震があった。北海道胆振東部地震である。
 僕はこの地震に、旅行者の立場で遭遇した。もちろん被害の大きかった地域に住まわれている方とは比べ物にならないが、僕なりに大変な思いをして東京まで帰り着き、いくつかの教訓らしきものも得ることができた。
 あくまでも旅行記の体で、そのことについて書いてみるものである。

9月5日~6日未明

 そもそも、5日の時点からして道内の交通はガタガタだった。
 前日夜から北海道には台風21号が通過していた影響で、朝の時点でJR北海道は12時前後までほぼ全線で運転を見合わせるアナウンスがあった。
 結局のところ12時にはJRは運転再開しておらず、僕は12時30分札幌バスターミナル発の道南バス高速ハスカップ号にて苫小牧へと向かった。苫小牧での用事を済ませると19時近くになっており、さすがに運転再開していた室蘭線に乗ることができた。そんなこんなで当日の宿にたどり着いたのは21時近くになってのことだった。

 当日の宿だったのが、白老町虎杖浜温泉ホテル。
白老町の虎杖浜温泉ホテルへようこそ - 虎杖浜温泉ホテル【公式ホームページ】
 虎杖浜白老町でも登別市に隣接する地域だ。名だたる登別温泉に近いこともあり、戦後に白老臨海温泉として開発されて今に至っている。また虎杖浜は道内でもタラコの産地として知られる。現在一般的な外国産タラコの加工品ではなく国産タラコを使用していることもあり「虎杖浜たらこ」は地域ブランドとして確立してもいる。
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 お土産として購入できるだけでなくタラコまみれのタラコ丼なども食べることができるので、タラコが好きでプリン体摂取量の心配がないのだったら是非訪れて欲しい。
 
 今回は到着時間が遅かったこともあり、夕食はコンビニ飯と相成った。虎杖浜温泉ホテルは敷地内に24時間営業のセブンイレブンが存在するので大変便利である。北海道のコンビニおでんにはちくわぶが存在しないことを知って絶望し、豊富な湯量の温泉に身を沈めたあとは部屋のベッドに陣取ってサッポロクラシックを呷った。


 水曜日の深夜帯、HTVは「水曜どうでしょう」→「ハナタレナックス」→「ピエール瀧のしょんないTV」という地方制作バラエティ3連コンボで我々を待ち受ける。2本のサッポロクラシック350ml缶と地方制作バラエティ3連コンボの前に幸せな敗北を喫した僕は、テレビもつけっぱなしでいつしかまどろみの中に沈んでいったのだった。

9月6日 3時7分

 揺さぶられている感覚で目覚めた。
 地鳴り。周期の短い強い横揺れ。多少の感覚の違いこそあれ、マンションの5階で味わった東日本大震災の揺れに近いものを感じ、即座に地震であることは理解した。今回の部屋は鉄筋コンクリート造のホテルの2階だった。
 次に思い至ったのはホテルの立地である。海まで徒歩2分。東日本大震災クラスの揺れ。
 「……津波だ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
 部屋のドアを開けて、まだ揺れている最中に着替えをした。つけっぱなしだったはずのテレビは消えていた。リモコンの電源ボタンを押すが反応はなく、ここで初めて停電に気づいた。部屋の明かりは非常灯に切り替わっていた。
 前日寝落ちしたせいでスマホの充電は6%。モバイルバッテリーに繋いで、radikoNHKラジオを聞くとアナウンサーが津波の心配はないと繰り返しており安堵する。他の部屋の宿泊客も廊下に出ている声が聞こえたので、僕も部屋を出て1階ロビーに降りることにした。喫煙所に行きたくなったのが直接的な理由だが、本能的には人間を求めていたのかもしれない。

 1階ロビーは端的に言って軽いパニックが起きていた。中国人観光客団体に何事か大声で説明する添乗員らしき中年女性。ホテルの従業員に情報を求め詰め寄る年配の男性。僕はといえば玄関を出た灰皿の脇で煙草に火をつけ、停電によりすっかり暗くなった海沿いの町と、対象的に明るい星空を見つけて何やらエモい気分になったりしていたのだった……
 ふと思いたってホテルに隣接するセブンイレブンへ行くと、照明は消えていたが自動ドアは開放されていた。中では中国人観光客らしき一団がカゴにペットボトル入りのミネラルウォーターを詰め込んでいた。レジに並んでいる客もいる。「まさか……」と思ったが、そのまさかで停電中でもセブンイレブンはレジが稼働していた。「???????」と脳が訴えかけてくるのを感じつつも、平静を装い僕は煙草を1箱だけ購入した。【失敗ポイント】

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 地震から1時間ほど経ち、午前4時を過ぎるとロビーに詰めかけていた宿泊客も各々の部屋に帰り始めた。停電はまだ復旧しておらず、東の空がだんだんと白んでくるのが手に取るようにわかった。しかしながら、この頃はまだ停電は近々復旧すると思っていた。ラジオからの情報では、新千歳空港では滑走路に異常が見つからなかったことも告げられていた。まあ、大丈夫だろう。明日の飛行機で東京には帰れるだろう、という根拠のない楽観の中で僕も自分の部屋に戻り、ベッドの上で眠ることもできずスマホをいじることになった。【失敗ポイント】

9月6日 早朝

 6時過ぎになって、東京の家族へ無事である旨を伝えることができた。それと同時に、段々と自分の置かれた状況が深刻であることも理解できるようになってきた。

 まず、新千歳空港の運航再開見通しが立たない状況であることがわかった。滑走路の異常はなかったものの、ターミナルビルが壁・天井の崩落、漏水などで閉鎖されたのだ。
 思い起こされたのが、数日前の台風21号によって関西国際空港の閉鎖が長引きそうだというかねてよりのニュース。そして、2016年の熊本地震の際には熊本空港の閉鎖が数日間に及んだことも。
 これによって、当初の予定通り翌日の飛行機で東京へ帰ることは、この時点では全く現実的でない選択肢となった。(ちなみに僕が搭乗予定だったこの飛行機は、運航再開した新千歳空港からの第1便として飛んだのだが。)

 そして、停電が思ったよりはるかに深刻で、文字通り普及の目処が立たない状況であることがわかった。
 全道に及ぶ停電の原因が、電力需給のバランス崩壊によるいわゆる「ブラックアウト」であろうことはTwitterなどでの情報からわかっていた。道内最大の苫東厚真火力発電所が緊急停止したことにより引き起こされ、再稼働させるために水力発電所からの電気を送っている、という情報がNHKからは伝えられていた。ところが、この苫東厚真火力発電所のタービンその他が損傷していることがこの頃ようやくわかったのである
 ということで、電気は来ない。来る見込みもない。

 ……ヤバい。
 今回つくづく理解したが、現代社会というのは本当に電気に頼っている。「電気があれば何でもできる」状態なのだ。

 電化製品が使えないというのは言うまでもない。スマホの充電は、残量80%くらいの1200mAhモバイルバッテリーが頼みの綱となった。
 JRは当然動かないだろう。なにしろJR北海道が災害に対して非常に弱くなっているということは、前日の台風の影響で身にしみて理解している。今回は停電によって、信号も動いていない。となると今度ばかりはバスも動かないだろう。よしんば新千歳空港が再開したとしても、約60km離れた空港へ向かうのは大変に困難であることが予想できた。

 そして僕を一番危機的状況へと追い込んだのが、ATMが使えないということであった。
 前日夜、チェックイン時に宿泊料金を現金で支払っていたこともあり、当時僕の財布に入っていた現金は4000円弱であった。その時は「明日の朝下ろせばいいや~~~」などと思っていたのだが、夜が明けてみればこの有様である。【失敗ポイント】
 4000円弱という現金は、命を繋ぐことはできるがそれ以上のことはできないだろう。ましてや公共交通手段の一切が絶たれた状況で、都市部でなく、かと言って名だたる観光地というわけでもない土地から脱出するにはあまりにも少ない金額だった。
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 絶望に沈みかけた中で、ホテルは朝食を出してくれた。停電により加熱調理はできないらしく、パンとサラダ、果物などに限られたものではあった。しかしそれでもコンビニではすでに食料品が払底していたこともあり、僕はこの朝食のおかげで飢えを逃れることができた。人生でこんなにポテトサラダを食べたのは初めてだろう、というくらいポテトサラダを食べた。僕はあの時、まさしく向井秀徳だった……
youtu.be

 朝食を食べたことで緊張の糸が緩み、自室のベッドで寝た。

9月6日 午前中

 9時過ぎに起きたと思う。両親からは早急な帰宅を勧めるLINEが何通も入っていた。自分でも、このまま北海道にいても何もできないだろうと思い始めていた。でも新千歳空港をはじめ、交通機関は復旧していない。現金が4000円では何もできない。また思考が停止しようとしていたが、思い出したのがフェリーの存在である。
 一昨年、北海道から帰京する際に僕はフェリーを使った。苫小牧ー八戸のシルバーフェリーである。インターネットで情報を集めると、北海道を発着するフェリーは通常運航しそうな気配があった。
 現時点でこの島を出るにはフェリーしかない、そんな気がしてきた。
 10時になって、バイト先に7日の欠勤連絡をしようとしたところでスマホに着信があった。市外局番からすると苫小牧の番号。出てみると、その日に泊まる予定だった苫小牧のホテルからだった。
「ベッドの用意はできるが、電気ガス水道の復旧の目処が立たず満足なサービスができない。キャンセルの場合、返金する」という内容だった。その時点では、苫小牧までたどり着ける保証もない。ましてや翌日、新千歳から飛行機に乗れるとも思えなかった。二つ返事でホテルをキャンセルし、僕の頭は一気にフェリーによる北海道脱出へと切り替わっていた。

 ここで、僕の中にあった選択肢は2つ。1つが、シルバーフェリーこと川崎近海汽船苫小牧ー八戸航路。「とにかく本州に上陸すればどうとでもなる」という思いが強かったので、仙台や大洗までフェリーで渡ることはあまり頭になかった。
 もう1つが、6月にできたばかりのシルバーフェリー室蘭ー宮古航路東北新幹線にすぐに乗ることができる八戸に比べて、宮古は不便ではある。でもまあ本州まで行けば公共交通機関はいくらでも動いているだろうし、何より電気があるからATMも動く。何でもできるだろう。
 苫小牧ないし室蘭までは、タクシーを捕まえるのがその時考えられる一番現実的な手段だった。幸か不幸か、白老町は苫小牧と室蘭のまさしく中間に位置しているのでどちらへのアクセスも可能ではある。Googleマップを開いて現在地からの距離を確認する。苫小牧までは約40km、室蘭までは約30km。室蘭からフェリーに乗ることを決めた。

 シルバーフェリーのインターネット予約は前日まででったので、電話での予約になる。室蘭、苫小牧といった道内の事務所はかけるだけ無駄に思えたので東京の事務所にかけるが出ない。
 そこで宮古の事務所に電話をかけると、拍子抜けするほど簡単にチケットがとれてしまった。9月6日20時室蘭発宮古行きのシルバークィーン、これが僕にとって文字通りの「助け舟」となった。
 とにかく北海道から脱出する手段は確保できた。……が、ここで僕の思考は完全に停止した。

9月6日 午後

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 "エモ”を、していた……
 静かな海を見ては、時折ブラックニッカのポケット瓶を舐めるなどしていた。
 
 何よりも、手元に現金が4000円弱しかない、というのが悩みの種だった。室蘭まで行くとして、タクシーは恐らく8000円程度かかる。クレジットカードは使えるのだろうか……
 いや室蘭まで行けたとして、フェリーの運賃もある。これこそクレジットカードが使えなかったらどうしようか。宮古で払えるよう、泣きついて頼み込むしかないか……
 というか、タクシーを捕まえることができるのだろうか。呼んだら来てくれるであろうか。両親からは「ヒッチハイクしたら?」などという無責任なLINEが来ていた。そりゃまあ、やってできない事はないだろうが……
 「明るいうちに行動した方がいい」というのはその通りだろう。いざとなったら着替えなんかは打ち捨てて、歩いてでも室蘭に行くしかないのだろうか……

 などと考えていたら何もできなくなった。
 朝食を許される限りしっかり摂ったとはいえ、それもはや数時間前。すっかりお腹は空いていた。空腹が人間から正常な思考力を奪う、というのは本当である。


 そんな状態でホテルまで戻り、玄関脇でしゃがんで今日何本目か最早わからなくなった煙草に火をつけた時だった。
 ホテルの車寄せに、1台のタクシーが止まった。車体の文字から、登別のタクシー会社であることがわかる。後部座席には客が乗っているので、誰か別の人間が呼んだタクシーではない。支払いは……クレジットカード。
 カード!!!!!!!!!!!!クレジットカードが使える!!!!!!!!!!
 先客を見送り、再び乗り込もうとする運転手を捕まえる。
 「あの!!!!室蘭まで行ってもらうことできますか……?」
 「室蘭なら……いいよ」
 フロントに預けていた荷物を回収し、タクシーに乗り込む。ドアに貼られた「中型」のシールを見て、(小型じゃないから高いな……)と思ったのを記憶している。

 ところで僕は、車の免許を持っていない。運転手が「室蘭なら」と言った理由は、車を運転しない僕には考えもしなかったが、至極当たり前の理由だった。
 「ガスがさ、ないんだよね」
 停電により、ガソリンスタンドの殆どが営業できない。数少ない営業している店舗の前には長蛇の列ができているが、これまた停電で製油所からの搬出が止まっているのでいつまで持つのかわからない。本当に電気がないと何もできないのだ。
 信号の一切灯っていない国号36号線をひた走り、メーターは予想どおりの金額で止まった。お礼を言ってタクシーを降り、室蘭港フェリーターミナルへ入る。2階の待合室に置かれた長椅子に陣取ると、安堵感からか僕はすぐに意識を失った。

9月6日 夕方

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 最後の懸念材料は「室蘭でフェリーの運賃が支払えるか」だったが、なんとここでもクレジットカードを使って払うことができた。神か。これでカウンターで泣き落とす必要もなくなり、手持ちの現金は全てフェリーの中で使えることになった。フェリーターミナルに一番近いコンビニはセブンイレブンだったが営業しておらず、かといって室蘭駅の方へ歩く気力も無かった僕はここでもまだ飢えから逃れられていなかった。

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 明かりの一切灯らない室蘭の街とは対象的に、空は悔しいほどにオレンジ色だった。僕を含めて待つことしかできない乗客たちは皆スマホを取り出して写真を撮り、ぼんやりとそんな景色を眺めていたのだった。


 僕が長椅子で寝たりエモ空を眺めている間に、フェリーターミナルには続々と人が詰めかけていた。午前中の段階で予約をしていなければ、とうてい乗ることはできなかっただろう。
 18時過ぎに、宮古からフェリーが到着した。待ちかねていた500人の乗船予定者たちが、一気に総毛立ってくる。
 ふと、ヒギンズの『脱出航路』を思い出した。ドイツの敗色濃厚となる中、制海権を失った大西洋を横断してブラジルからドイツへと渡る老朽帆船ドイッチェラント号に乗り込む様々な人々。手に汗握る危険な航海にはならないだろうが、僕を含めた多くの人々にとってはこのフェリーが「脱出航路」に他ならないのだから。


 フェリーからは続々と赤い回転灯を灯した緊急車両が、すでに真っ暗になった室蘭港に降りたってくる。後でわかったことだが、これらは岩手県から派遣されてきた部隊だった。

 19時過ぎに乗船開始のアナウンスがあった。停電でボーディングブリッジが使えないので、1台のバスによるピストン輸送で乗船客を船内へ入れるという。たまたま出入口付近にいた僕は、運良くその第1便に紛れ込むことができた。
 バスでフェリーの車両甲板まで入り、階段を登って船室へ。割り当てられた二等船室の一角に荷物を置くと、一目散にレストランへと向かった。近年のフェリーの例に漏れず、シルバークィーンのレストランも冷凍食品を自販機で購入し、備え付けの電子レンジで温めて喫食するタイプだった。
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 冷凍されたビビンバとチキンナゲットが、僕にとって12時間ぶりの食事となった。普段なら大脳をフル回転させて「SF食だ!!!」という興奮の中、咀嚼と嚥下を繰り返すような代物ではある。この時はただただひたすらに「温かい食事」がありがたかった。
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 定刻の20時を少し過ぎて、フェリーは室蘭を出港した。「東京に帰れる」という安堵感の中、同時に僕は「寝る!!!!!!!」という強い意志を示すために体へカップ酒を投入し、泥のように眠った。

9月7日

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 海路つつがなく、シルバークィーンは岩手県宮古港に着いた。
 コンビニに電気がついていたり、満員のフェリーの乗客に対応するべくフェリーターミナルへバスがどんどん送り込まれているのを見て、インフラが生きている地にたどり着いたことを実感した。

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 宮古では見ず知らずの方に教えてもらった魚菜市場でイカを食い(メチャ美味だった)

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 カキを買い(クソ重かった)

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 盛岡まで出て東北新幹線に乗り(車販のお姉さんにDWUの動画を視聴しているのを見られた)

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 地震から38時間後、ようやく帰宅したのだった。

今回幸運だった点

・携帯の電波が通じていたこと
 今回、何が一番幸いだったかといえばこれに尽きる。僕のキャリアはdocomoだが、全道が停電している中でも電波が途切れることはなかった。
 連絡が取れる、情報が得られるという基本的にして何より大切な恩恵を受けることができた。さらに、クレジットカード決済が使えたのも携帯の電波が通じていたおかげである。
 現金4000円弱でも何とかなったのは電波のおかげである。電波があれば何でもできる。というか本当に、電波が通じなくなっていたら恐らく何もできなかっただろう。

今回得られた教訓

 今回、旅行者の身分で地震・大規模停電という災害に遭遇したことで、いくつかの教訓を得ることができた。文中にいくつかある【失敗ポイント】から、それらを抽出していきたい。

 ・人間は過度の負荷がかかると、根拠のない楽観に支配される
 「停電はすぐ復旧するだろう」「JRは今日中には動くだろう」「新千歳空港も再開するだろう」「予定通り旅行を続けられるだろう」というやつである。
 恐らくこれは危機に対する人間の防衛反応なのだとは思うが、最悪の事態を頭の片隅に置いて行動したほうがいいのがよくわかった。

 ・現金は持っておけ
 今回、何が僕を一番苦しめたのかといえばこれである。特に旅行中は、ある程度の現金を持っていたほうが絶対にいい。できれば何かあった時に安全な場所へ脱出できる程度の……

 ・電気がないと何もできない
 停電によりATMが使えない、というのが僕にとって最大の痛恨事であった。当然、銀行信金郵便局といった各金融機関も停電により休業していた。
 スマホの充電もモバイルバッテリー頼みになった。前日酔っ払って寝落ちして、充電器に繋いでいなかったせいでもあるが……
 あと地味ながら困ったこととして、「水が流せない」というのがあった。僕のいた地域では断水はしていなかったのだが、ホテルでは水を汲み上げるポンプが停電により動かなくなって水が出なくなった。それ以外にも、センサーによって水を流すタイプのトイレだと、停電すると水が流せない。手洗い場も同様である。
 それ以外にも自販機が動かない、公共交通機関が動かない、ガソリンスタンドが営業できないなどなど、停電による影響は挙げていけばキリがない。「電気があれば何でもできる」というのは誇張であれど虚構ではない。

 ・食べ物を確保しろ
 今回、飢えた。人間というのは空腹になると、正常な思考ができなくなることを実感した。
 原因は地震直後に営業していたコンビニで、煙草一箱だけ買ってそれ以外何も買わなかったことが大きい。なぜそんなことになったのかと言うと、根拠のない楽観の元にいた僕は地震直後に食べ物を買うのが「買い占めみたいでカッコ悪い」と思ったからだった。
 今なら言える。馬鹿だ。カッコつけている場合なんかではなかった。
 何の地縁も血縁もない場所にいる旅行者であれば、正直なりふり構わず自分の状態を優先した方がいいとさえ思える。余裕のある状況でなければ、恐らく助け合うこともできない……

 ところで今回北海道から逃げ帰ってしまったせいで、僕は当初の用事の半分も済ませることができなかった。なのでそのうちまた渡道することになる。
 言うまでもなく、北海道は無条件にいいところである。クソ広い大地と空があり、美味い食い物があり、そこらじゅうでクソ美味いビールであるサッポロクラシックが売っている。乳と蜜の流れる約束の地カナーンというのは北海道だと言っても過言ではない。
 どうか皆さん、これからも北海道に行ってほしい。北海道はここにある。

私家版:社会主義日本におけるエレクトリーチカ

 Электричка(エレクトリーチカ)というのはロシア語で、日本語に訳す際はまあ「電車」と訳せばいいと思う。
 ただし、電気で動く車といっても路面電車は含まない。もちろん無軌条電車(トロリーバス)も、電気自動車も含まない。日本語で何の前置きなく「電車」と言ったときに指す、JRや私鉄が走らせている電車をイメージすればいい。故に、Электричкаは電車と訳せばいいわけだ。

 そんなエレクトリーチカは言葉の意味だけでなく、実は何もかもが日本の電車に似ている。その存在意義や運用といったものに加え、外観までも日本の電車と比較してあまり違和感を抱かせない。
 そもそも日本の鉄道のオタクさんは海外の動力分散型列車が好きだったりするが、そんな中でもエレクトリーチカは一定の人気を持つものと考える。

 ところで「ソ連によって占領された経験を持つ社会主義国家たる戦後日本」というのも、まま見られる題材である。
 矢作俊彦『あ・じゃ・ぱん』、佐藤大輔征途』などといった作品名を出すに及ばず、歴史ifや現代ものSFに興味があるオタクであれば一度は考えると言ってもいい。
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 上記2つの概念を融合させると、「日本版エレクトリーチカ」というものが生まれる。
 本稿は、Nゲージにおける「日本版エレクトリーチカ」作成につき、その経緯と工作手順について概要を述べた上で、僕が好き勝手なことを書き散らすものである。

先行研究

 「日本版エレクトリーチカ」を作成した事例は、web上にて閲覧できるものだけでも数件存在する。
 おっとっと氏による『社会主義日本エレクトリーチカを作る』、v43*****氏『東日本人民鉄道 エレクトリーチカ』などが挙げられる。
社会主義日本エレクトリーチカを作る (完) | 地味鉄庵
blogs.yahoo.co.jp

 しかしながら、そのいずれもが4ドアや3ドアといった通勤型の車体を持つことがわかる。
 これはかつて、鉄道趣味界隈におけるエレクトリーチカの訳語として「通勤電車」が定着していたことによるイメージではないかと考える。
 ソ連における実際のエレクトリーチカは、そのほとんどが2ドア車であり、運用についても走行距離100kmを超えるようなものも存在する。
 故に、エレクトリーチカの性質に近いのは「通勤電車」よりも、むしろ「近郊電車」ないし「中距離電車」ではないかと考える。これを踏まえ、今回の作成にあたっては2ドア車をベースとした。

作成記

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 作成にあたってベースとしたのは、グリーンマックス エコノミーキット 80系300番台である。
 価格の面、また加工を行うにあたっての容易さを勘案し、GM製エコノミーキットを使用した。
 国鉄80系電車は2ドア車であり、国鉄においては100km超の運転を行うなど「中距離電車」の始祖と言える。特に300番台は軽量客車の技術をベースとした全金属製車体であり、これはエレクトリーチカのイメージに合うものと考えた。また、シルヘッダが存在しないことから加工にあたっても容易であると判断した。
 このベース選定を踏まえ、原案としたのはエレクトリーチカの中でもЭР2(ER2)である。
ЭР2 — Википедия


 今回は旧型国電をエレクトリーチカっぽくしつつも、「社会主義日本におけるエレクトリーチカ」ということで日本の匂いも残すことを目標とする。

車体

 エレクトリーチカらしさを醸し出す重要な要素として、車体に走る太いビードの存在がある。
 このビードの表現には、古典的方法ではあるが0.5mm幅のICテープを使用した。Nゲージの車両が1/150のスケールであることを考えると、これは実車においては7.5cm幅の極太ビードになるわけだが、「模型的な見栄え・わかりやすさを追求したデフォルメである」という言い訳を採用した。あと、おもちゃっぽい造形は単に僕の好みでもある。
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 ICテープの使用についても、極細プラ帯を切り出す、伸ばしランナーを大量生産する、エバーグリーン等のプラ半丸棒を調達するなどの諸案から予算・加工の容易さを勘案した結果である。
 また、この方法においては以下の2点の問題点が見つかった
 ・ICテープの性質上粘着力が弱く、ある程度の長さがある場合はいいが、短いと剥がれてしまうことがあった
 ・材質が紙であるため表面が平滑でなく、サーフェイサーを吹いてもプラとの差が目立った
 なお、これら問題点の解決にあたっては低粘度タイプの瞬間接着剤を併用し、ペーパーがけを行うことで解決できるものと思われる。

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 前面の加工としては、雨樋と窓下への前照灯、さらにスカートの増設を行った。
 雨樋は側面ビードの表現にも使用した、0.5mm幅のICテープを使用した。
 前照灯は銀河モデルの国電用を埋め込んだ。おそらく113系あたりに使用するパーツだろうとは思うが、よくわからない。
 スカートとして使用したのは、KATOのDF200用assyパーツである。当初はそのまま使う予定であったが、レール面とのクリアランスの関係からステップとスノープラウをカットした。カプラがアーノルドタイプのままなのは、僕の趣味と理念によるものである。

 ヘッドマークは、GM製の関西急電用ステッカーの中央に星型パーツを接着して作成した。星型のパーツはネイルアート用のもので、DAISOにて購入した。

足回り

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 台車には国鉄DT22台車を使用した。動力にもGM製DT22を用いた。
 気動車用の台車ではあるが、コイルばねの感じがエレクトリーチカっぽいので採用した。加えて秋葉原の某中古鉄道模型店で投げ売られており、台車が1両分200円、動力が850円と破格だったため大量に買い占めた。

塗装

 塗装についても、今回は独自の解釈を行った。なお、特筆なき場合はMr.カラーの基本色をそのまま、調色などは一切行わずに使用した。
 先行事例において、「日本版エレクトリーチカ」は暗緑色系の塗装がされることが多いが、どれだけ実際のエレクトリーチカの写真を見ても暗緑色には見えなかったため、今回はより明るい緑、Mr.カラーのグリーン(C6)を使用することにした。
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 実際のソ連におけるエレクトリーチカの標準塗装は、側面に黄帯・前面に赤の警戒塗装であるが、今回はあえてそれを逆の配色とした。側面に赤帯は戦前における鉄道省の3等車を示すものであり、戦後社会主義化した日本においてもそれが受け継がれたものである。使用色はそれぞれ赤がレッド(C3)、黄がイエロー(C4)である。
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 屋根の塗装では、明るいグレーを明灰白色(C35)、濃いグレーをジャーマングレー(C40)を用いた。信号炎管はホワイト(C1)である。
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 パンタグラフTOMIXのPS13をレッド(C3)で塗装した上で乗せた。黒染めされているためか、サフ吹きすることがなくても塗料がきちんと乗った。
 床下機器はつや消しブラック(C33)である。

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 また、ウェザリングを行っている。使用したのはタミヤウェザリングマスターである。台車からのブレーキ鉄粉表現として床下・車体裾に茶系を、屋根上はパンタからの飛沫として茶色を、また蒸気機関車が併用されているとの設定で全面に黒ですす表現を行った。
 これらウェザリング表現は控えめに言ってオーバー、有り体に言えばドギツいものであるが、単純に僕の趣味である。批判は受けても、否定される謂れはない。

完成

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 主に塗装における技量面の問題から、お見苦しい点はあるかと思う。側面はエレクトリーチカさが溢れるが、正面から見れば80系の匂いが消せていないのも不満点である。
 またドロドロのウェザリングは、鉄道模型において許容される範疇を超えるものである自覚はある。
 何はともあれ、僕なりの社会主義日本版エレクトリーチカができた。まだ大きなレイアウトで走らせてはいないが、一度走らせたなら人々の耳目を集め、運転会のアイドルとなり、東西日本を隔てる軍事境界線を越えて走り抜ける統一電車となることは間違いないであろう。