濹堤通信社綺談

江都の外れ、隅田川のほとりから。平易かつ簡明、写真入りにて時たま駄文を発行いたします。

競馬場でビールが飲みたい

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 競馬場に行きたい。
 5月も終わりを迎え、そろそろ梅雨の足音が聞こえてきているどころか、その先の夏の気配さえ感じてきている。食材の管理や新調したゲーミングPCの排熱など憂鬱なことは多々あるが、ビールが美味しくなるのは喜ばしい。
 いや、ビールはいつだって美味い。そりゃあそうだ。雪が残る真冬の丹沢で、凍えながら飲んだキリンラガーはキリリと締まって震えるほどに美味かった。やることをすべて放り出し、休みの午前中に「プシッ」としてしまう缶ビールは背徳の蜜の味だ。
 そんなことを言うまでもなく、今頃の初夏の爽やかな風が吹き抜ける中で窓を開けて飲むビールはめちゃめちゃに美味い。最近、グランドキリンIPAに凝っている。華やかで爽やかで、実に今向きのビールなのでオススメです。

 しかしながら断言する。一番美味くビールが飲める場所、それは競馬場である。
 例えば、東京競馬場。G1レースのある日だと大変な人混みでビールどころではないので、G3くらいだと丁度いい。土曜日だったらもっとゆったりと楽しめる。最近の競馬場は単なるギャンブルの場ではないとJRAが頑張って発信し続け、様々なメディアでも言及されているがその通りだ。例えるならば東京競馬場はディズニーシーである。酒が飲めるからね。
 府中に行くのなら、僕はだいたい昼くらいに着くようにする。一人でも、複数人で行くのでも、5レースくらいに着くとちょうどいい。4レースと5レースの間に人がわっと店に押し寄せるので、それが一段落した頃合いを狙うのだ。
 「競馬場グルメ」などと持て囃されて久しいが、競馬場で物を食べるのには困らない。コンビニからおなじみのファストフード、昔ながらのスタンドのカレーまで、競馬場には何でも揃っている。その中でも僕が気に入っているのは、馬場内と呼ばれるコースの内側。そこに出ている屋台だ。競馬場というのは、僕にとって間違いなく遊びという「ハレ」の場であり、屋台の食べ物というのも「祭り」を思い起こさせて「ハレ」感を高めてくれる。それに、ただでさえ広々とした競馬場の、緑の芝生が広がるコースの真ん中で飯を食うというのは最高に気分がいい。
 そして、忘れてはいけないのがビールだ。競馬場でビールを買うのは容易い。そこかしこでビールを売っている。ここで飲むのなら、やはりヱビスでしょう。日本で一番「ハレ」の気配ある伝統のビール。すぐ近くにサントリーの工場があるが、そんなことはどうでもいい。ちなみに府中で売ってるサントリーリザーブの水割りは、びっくりするほど「水」なので、自前のウィスキーを持っていくのをおすすめする。

 競馬場ビールにおける「爽やかさ」の頂点が府中の東京競馬場であるなら、対象的に「しみじみと」飲めるのが船橋競馬場だ。
 船橋は、いい。まず何がいいって、いつ行っても空いている。いいのか悪いのかわからないが、見る方としてはありがたい。もしもあなたが、満員の東京競馬場大井競馬場しか知らなければ驚くだろう。いや、多分「引く」。売店の前にある飲食スペースですら、いつ行っても空席がある。スタンドなんてガラガラだ。東京湾から吹いてくる風に吹かれて、IKEAららぽーとを見ながらビールが飲めるのはそれだけでも気分がいい。
 船橋競馬場には、東京競馬場大井競馬場のような華やかさはない。スタンドなんて、まるで古い病院か役所かというような建物で端的にボロい。「レジャー」の場を体現するかのように家族連れやカップル、その他グループの目立つ東京競馬場や、仕事帰りに「夜遊び方改革」しているホワイトカラー男女が集う大井競馬場とは客層も異なる。キャップを被ったおっちゃんのような、かなりオールドタイプな「競馬場にいる人」が多い。愛車は自転車か軽トラか。ウインズ浅草みたいな感じ。わかんないかもしれないけどね。
 出店しているのも、馴染みのファストフードなんてものはない。昔ながらの売店・スタンド。串に刺したモツ煮が1本100円。ちょっと前まで、ビールもJRAの競馬場まで安かった。スタンドの内側にいるおばちゃんは、若造の僕にも「今日は勝ってる?」なんて声をかけてくれる。なんて温かい、なんてのんびりとした競馬場なんだろう。
 しかも船橋競馬場、ほとんどの開催がナイターだ。たとえ真冬であってもナイターだ。船橋に真冬のナイター競馬を見に行ったことがあるが、それはそれは人がいない。それでも楽しく競馬は見れるし、なんだかんだでビールは美味い。ああ、でも熱燗も捨てがたいですね……

 こんなことを書いていて意外に思われるかもしれないが、僕の競馬歴は長くない。2018年の宝塚記念が競馬デビューなので、まだ丸2年も経っていない。
 別に競馬に毛ほどの興味もなかった僕が競馬にドハマりした理由の一つに、オタクとの親和性が高いことがあると思う。特に鉄道やミリタリーが趣味ならなおさらだ。まあ、僕がそうなのだが。
 競馬新聞やスポーツ新聞の競馬欄を見てみれば、競馬は1つのレースにおける情報量が極めて多い。枠順、馬体重、今までの成績、調教の様子、馬場状態、ジョッキー……挙げていけばキリがないくらいデータに溢れている。趣味というのは何でもそうだとは思うけれど、鉄道やミリタリーというのも特にそういう趣味だと思う。掘れば掘るだけ情報にたどり着き、それを吸収することに喜びを覚えるのが鉄道やミリタリーのオタクとしては一般的な姿だと思う。故に鉄道やミリタリーのオタク諸氏は、競馬にとても適性があるのだ。
 しかも、競馬というのは馬と人とが織りなすドラマに溢れている。夢がある。ロマンがある。「新京阪P6とC59が全力で競争したらどうなるのか」「Bf109とスピットファイアどっちが強い」などと考えたことはあるだろう。競馬というのは、まさにそれをやっている。毎週末にJRAで、地方競馬も含めれば毎日どこかで競馬は行われている。騎手、馬主、調教師、厩務員、調教助手、その他ありとあらゆるスタッフ……様々な人が関わって。僕の思う鉄道やミリタリーの魅力もこういうところにある。故に僕は競馬にハマったのだ。

 そして、競馬には鉄道やミリタリーとは大きく違う魅力がある。
 お金が、増えるのだ。たまに。鉄道やミリタリーが好きでいて、お金が減ることはあったけれど増えたことは一度もない。でも、競馬ならお金が増える。これはすごい。まあ、結構な確率で減りますが。でも今年は回収率100%超えてるもんね。
 実は始めて競馬をした一昨年の宝塚記念で僕は始めての「勝ち」を経験した。ビギナーズラックと言ってしまえばそれまでだが、勝ちは勝ちだ。

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 7番人気ミッキーロケットと、10番人気の香港馬ワーザーの馬連。これを400円も買っているわけだ。すると……
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 こうなる。もうシビレちゃった。こうなったらもう転がり落ちてしまうのも無理はない。しかしまあ、よくこんな馬券を買ったものである。とはいえ僕はすっかり穴党に育ってしまったので、わりと今でもこういうことはしているのだが。
 この勝ち分は西川口の鯉鍋に化け、残りの9000円を入れたジタンの箱をどこかに落としたというのは僕の持つ一つの伝説である。思い出させてくれてありがとう。もう2度とお金を落とさない。

 今週末の日曜、ダービーがある。ダービーが何なのか、知らない人に説明するのは面倒なのでしない。競馬ファンにとって年に2回ある、最高の盛り上がりを見せるタイミングの1つだと思ってくれれば差し支えない。もう一つは年末の有馬記念だと思う。
 コロナ禍の渦中にあっても、競馬は無観客ではありこそ開催されていた。競馬場に行けない、紙の馬券が買えない寂しさはあったが、それでも他のスポーツが軒並み開催中止になっていたことを思えばかなり恵まれていた方だろう。
 残念ながら無観客開催は延長されてしまったけれど、それでもダービーは開催される。めでたいことだ。
 もしも長々と書いたこの駄文を読んで競馬に、ダービーに興味を持ってくれたのならば、今週の日曜日午後3時位からテレビをつけてみてほしい。NHKとフジテレビ系列で中継をしているはずだ。ラジオだったらラジオ日経第一がおすすめだ。
 競馬場では会えないけれど、せめてみんなでダービーが見れたら嬉しい。せっかくなのでビールも飲みましょう。時期だし空豆なんか茹でてさ。冷蔵庫に、秘蔵のサッポロクラシックが4本眠っているのだ。

 料理はしているけれど、特に書くことがないので料理コーナーはお休み。写真は上げているので、よかったら僕のTwitterでも見てくださいな。
twitter.com

脳みそで飯を食うのだ

 またしても、で恐縮ではあるところだけど、今回も飯の話だ。
 正直なところ、まあ食い意地の張っている方だとは思ってはいたけれど、ここまでとは思わなかった。四六時中、飯のことばかり考えている気がする。いかに自分の原動力が食欲であることかを実感している5月である。

 あいかわらず、自分の飯には飽きている。一度や二度、近所の中華料理屋でラードとハイミーの利いた味付けの料理を食べたところで味覚の方はどうしようもない。「惣菜を買ったりレトルト品で楽をすればいいじゃない」と思う向きもあるかもしれない。一人暮らしだったら、それでいいだろう。実際、そうしている人は沢山いる。僕も多分そうする。
 ところで我が家は、男3人暮らしなのだ。
 3人の男が十分に食べる量というのがどれほどのものか、身にしみて理解している。それだけの量の惣菜を買ったら……考えるだけでも恐ろしい。いくらになるんだ?お気づきかもしれないが、僕はけっこう貧乏性なのだ。出費は3人で割るとはいえ、日々の数千円の買い物でも結構ビクビクとしている。それを惣菜にしたらと思うと、中々に怖い。大体のものは作れてしまうので、作ったほうが安い。しかも、たぶん美味しい。じゃあ、作ればいいんじゃない?作るか。こうしてまた、僕は自分の飯に飽きていく。

 自分の味に飽きているだけでなく、最近少し料理そのものにも飽き始めている。1ヶ月以上連続して寮母さんのごとく飯を作っていた結果、調理の手際がめちゃくちゃ良くなってしまった。自炊を始めた去年の夏と比べても、それどころか4月の頭と比べても手際が良くなっている。一汁三菜の献立だとしたら、一から作ったとしても1時間かからない。がんばれば30分。動作が最適化されていく喜びや楽しみというものがかつてはあったが、今となってはなんとなく手応えがない。僕は日々湧き上がる創作意欲を料理で発散している節があったのだが、それが失われてしまったような感じがする。

 自分の味に飽き、そして調理手順にも飽きてきた人間がどうなるか。まず、やたらと凝ったものを作りだす。調理に手応えを求めるのだ。俺より強い奴に会いに行く。
 GWの最終日、僕はパエリアを作った。単純に自分が食べたかったので「……作るか」となったのだが、調理に手応えを求めるようになっているから「お手軽」とか「カンタンなのに美味しい」などと謳うレシピには目もくれない。「本格的」とか「スペインの味」などというレシピを検索する。いつもの大手スーパーならクレジットカードのポイントが3倍になるが、それを無視しても少しいいスーパーに行く。当然ながらシーズニングミックスなどは買わず、迷わずサフランをカゴに入れる。サフランなんてパエリアとサフランライス以外で何に使うのだろうか。魚介のコーナーに行っても、むきえびではなく尾頭つきのエビを探す。頭がついていないと意味がないのだ。

 調理にあたっても、手応えが必要だ。ということで寮母さんから炎の料理人に変わりつつあった僕は、さらにキッチンドランカーへとランクアップする。酒を飲みながら料理という戦いをくぐり抜けていく……そう、酔拳だ。ジャッキー・チェンを見たことがないのか?褒められた行為ではないと思うが、まあ休日だし神も許してくれるだろう。特に信仰している神はないが。
 頭付きのエビを買ったのは、事前に調べた「本格」レシピに「エビを取り出す際に、頭を潰してミソをスープに溶かす」とあったからだ。実に美味そうじゃないか。ところでこの、潰した頭はどうすればいい?調理者特権ということで、潰れたエビの頭をバリバリと食う。そしてビールを煽るのだ。酒には弱いほうなので、ビール1本でもう真っ赤だ。これくらいのハンデがないと、手応えがないじゃないか。もはや料理ジャンキーである。

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 こうしてパエリアが出来上がる。調味料は塩しか入れていないのに、ダシがしっかりと出ているので大変に美味い。いや、当然に美味い。しかしまあ、自炊を始めて8ヶ月でこんな物を作るのだから中々「極まって」きた感じがする。どうしてこんなことになったんだか。

 こんなことを続けていると当然疲れてくるわけで、逆のこともしたくなる。雑に飯を食うのだ。ただ、雑な飯を雑に食ってしまったのでは味気ないどころの話ではない。そんなことをしていたら人間が腐る。ということで、雑な飯を丁寧に食うのだ。
 丁寧に飯を食うというのは、テーブルマナーを守ってナイフとフォークでというのではない。頭をフル回転させる。イメージの中に自分を置く。舌で食べるのではなく、大脳で食べる。そう、大脳食だ。
park5.wakwak.com

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 チリコンカンにガーリックトースト。オーバー・イージーの目玉焼きにスパムが一切れ。全部自分で作っているので決して雑な飯というわけではないが、そこは目をつぶっていただくとして。
 
 じゃあ、頭を使うんだ。これは、家庭料理じゃない。アメリカの中部、ネブラスカあたりの田舎町のダイナーで出てきたものだ。埃っぽい駐車場には地元の水道業者の店名が書かれたフォードのピックアップやら、オレゴン州のナンバーが付いた大型トレーラーなんかが無造作に停められている。店に入れば、客は左の腕だけ日焼けした男たちが一斉にこちらを睨んでくる。
 ……俺は、殺し屋だ。フランス出身の。ひょんなことから、こんな田舎町で仕事をするはめになっている。当然、こんな飯に我慢できるはずもない。フランスパンはまがい物で、塩とイースト以外に何が入っているんだか考えたくもない。いつ作ったんだかわからないチリ。卵だけは本物らしいが、焼き加減がめちゃめちゃ。おまけにスパム!スパム!スパム!スパム!こいつはどこに行ってもありやがる。そこらじゅうで豚を飼っているのを見るのに、こんなピンク色の塊にしてしまうのは正気とも思えない。ステンレスのカップで出てきたことだけでもう許せないコーヒーは、ただ単に「コーヒー」という名前を名乗っている黒くて苦い水。きっとマルボロの吸い殻でも煮出しているに違いない。
きっと、とんでもない顔をしていたんだろう。目があったウェイトレスが小馬鹿にしたような顔をして「文句があるんなら、国に帰ったら。ムッシュー?」とからかってくる。こんな出会いだったが、この娘がひょんなことから相棒になるのだ……

 などと考えながら飯を食う。エンターテイメントを創造する。想像かもしれない。楽しくはあるのだが、一歩間違えれば危ない人なのは間違いない。それでもまた、せめてもの彩りとして僕は脳で飯を食うのだ。

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 「あれ?また来たんだ、ムッシュー。あいにく料理はこれだけだけどね」

以下、お料理

フキ

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 フキを煮た。
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 それも茹でて、皮を剥いて。自炊を始めて8ヶ月の独身男性がフキを剥いても罪に問われないだろうか。どうだろう、割と怪しいところじゃないだろうか。独身男性の「自炊」といえばカレー、チャーハン、パスタが黄金の三角地帯である。そこでフキとがんもの煮付けやら、鰆の塩焼きやら、塩もみきゅうりの酢の物なんて作っていていいのだろうか。
 言うまでもなく、これは「手応えのある調理」を求めた流れだ。

鶏むね肉を叩いて伸ばしてパン粉つけて揚げ焼きにしたやつ

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 料理の名前が長くて恐縮だが、これは美味い。めちゃめちゃにうまい。100グラム58円のむね肉とは思えない。某競馬場の名物にこれと似たようなものがあるが、それより間違いなく美味い。
 調理方法はもう名前の通りで、鶏むね肉を叩いて伸ばす。相変わらず酒瓶で叩いた。それに塩こしょうを振って、小麦粉を薄くまぶす。溶き卵にくぐらせたらパン粉をつけて油へ。いい感じの色になったら出来上がりだ。これは本当に美味しいのでぜひお試しあれ、というやつである。
 いうまでもなく、これも「手応えのある調理」を求めた流れだ。

オムライス

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 あなたは、オムライスを作ったことはあるだろうか。ないのならば、作ってみてほしい。あるのならわかるだろう。オムライスというのは、ハチャメチャに面倒くさい料理だ。おそらく家庭料理の中ではトップクラスに。
 それを3つも作るのだから、随分と手際がよくなったと思う。卵で包むのも上手くなったものだ。これでモテる。そう信じる。

ぼくが飯を作る理由

 飯に飽きた。

 別に、食べるのに飽きたというのではない。自慢ではないが、僕は食いしん坊な方だと思う。食べる、という行為に対してはかなり貪欲だし、できることならば美味しいものが食べたい。今だって食べたい。だいたい、いつだって食べたい。
 当然、体調が悪くて食欲がないというのでもない。メンタルも同様。実は去年の冬にうつ状態になったりもしたのだが、その時はてきめんに飯が食べられなくなった。ひもじい、寒い、もう死にたい。不幸はこの順番でやってくる。これは僕の場合には全くそうだったので、飯を食べたくない時は気をつけるようにしている。
 では何なんだというと、自分の作る飯にすっかり飽きちゃったのである。

 「家にいやがれ」と政府や役所が言っているのでという訳でもないが、ここのところはほぼ家で飯を食べる。外に出たってお店が開いていないのだから、当然そういうことになる。緊急事態宣言が出てからほぼ1ヶ月、毎日毎日だ。
 これは前にも言ったのだが、僕は今、男3人で暮らしている。去年の夏からそういうことになったわけだが、驚くべきことに僕は他の2人が作った飯というものを食べたことがない。するとまあ成人男性3人前の飯を、僕だけが作っているわけだ。毎日。ここ1ヶ月は下手したら1日3食。いやはや、もう立派なおさんどんだ。
 ただまあこれ、別に愚痴というわけでもないし、非難するつもりもない。実は僕が3人分の飯を作っているのは、僕が勝手にやっていることにすぎないのだ。他の誰に頼まれた、というのではない。そういう役割が、この「シェアハウス」で決まっているのでもない。事実上そういうことになってしまっている気はするが。重ねていうが、愚痴ではない。

 ところで、僕は食べ物について好き嫌いというものがない。全くと言っていいほど、無い。
 偏食ではない、というどころではない。当然ながら、嫌いな食べ物というのは無い。なんでも食べるし、世間一般ではゲテモノと言われるようなものでも食べる。先述の通り食いしん坊なので、食に対する好奇心は旺盛だ。
 問題なのは、「好きな食べ物」というのも無いのだ。世の中には「これだけ食べていればいい」というくらい好きな食べ物がある人がいる。例えば同居人の1人はカレーがめちゃくちゃに好きで、多分毎日カレーでも文句を言わないのではないかと思う。
 僕の場合はそれがない。すると何が困るって、同じものを食べ続ける、ということがとにかく苦痛になってくるのだ。

 フォロワーに、外食以外では毎日同じものを食べ続けていた人がいる。「楽でいい」というのはそうだろう。
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 でも、僕にはできない。断言するが絶対に無理だ。というか、無理だった。めちゃめちゃに忙しく、昼食を考えるのが面倒くさくなり、コンビニでミックスサンドとチョコオールドファッションドーナツを食べ続けていた時期があった。結果、病んだ。まだ実家に住んでいた頃で、朝晩は違うものを食べていてもダメになった。
 毎日の献立を考えるのが、面倒くさくなるときというのはある。自分が何を食べたいのかよくわからないこともある。それでも、過去数日の献立、冷蔵庫の中身、スーパーマーケットの値札、そういったものとにらめっこをした挙げ句、献立が組み上がっていくのは楽しい。ある種の快感だ。しかしながら、それすらも億劫なときでも、同じものを食べるくらいなら僕は献立を考える。こういうところが、僕が食いしん坊たる所以なのだろうと思う。

 そんなわけで毎日毎日献立を考えて、あれやこれやと飯を作っている。その一部は当ブログでもご紹介しているので、わかっていただけると思う。
 すると外食の機会がそうそう無いこのご時世、どういうことが起きるか。最初に言ったとおり、自分の飯に飽きちゃったのだ。

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 ということで、今日の昼は外食をしてきた。
 「家にいやがれ」ということなので、遠出はできない。幸いなことに、我が家から一番近い飲食店は純然たる「町の中華屋さん」だ。
 日替わりのAセット、税込みで800円。今日はレバーの唐揚げ。これは嬉しい。レバーの唐揚げは僕の好物だし、これは家では作らない。揚げ物は面倒だし、レバーの下処理も面倒だからやらない。そのうちやるかもしれないけど。
 「町の中華屋さん」ならではの、油とうま味調味料たっぷり目のの味付けがたまらない。脳にドバドバと「汁」が出てくるのを感じる。この味は自分では絶対に作れない。いや、作らない。
 隣のおじさんがビールを頼む。そうだよな、世間は連休の最終日だもんな。俺はまだ仕事がないから家にいるけど……
 徒歩3分、高々800円で随分と刺激的な体験をすることができた。ということで、僕はまた飯を作る。今日はパエリアだよ。

 以下、料理。
 だんだんと飯に飽きているため、暇に任せて凝ったものを作ったりしている。

おうちカレー

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 カレーは、足し算。何を入れたっていいし、入れれば入れただけいい。どうせ最後は「カレー味」になるんだから。
 ということで、市販のルーにスパイスをぶち込んだ。トマト缶も加えたし、ウスターソースも入れた。よくわかんないけどインスタントコーヒーも入れてみた。
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 僕は東京の人間で、両親も関東出身だ。家系を見てもずっと関東。でも、カレーは牛肉だ。豚肉のカレーというのを家で食べたことがない。どうせカレー味になるのだから、アメリカ産だかオーストラリア産だかの一番安い切り落としを入れている。精肉売り場で和牛の牛脂を貰ってきて、それで炒めれば十分だ。玉ねぎ、じゃがいも、にんじん、それにズッキーニとしめじ。何でも入れてしまえばいいのだ。
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 結果、ハチャメチャに美味いカレーができる。もう一度言う。カレーは、足し算だ。

しょうが焼きと、ホタルイカのぬた ズッキーニ浅漬け

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 しょうが焼きの玉ねぎはケチらないほうがいい。というか、玉ねぎの方が主体だ。豚肉は玉ねぎに旨味を吸わせるためにある、といっても過言ではない。それくらいしょうが焼きにおける玉ねぎは大きな存在だ。同じ皿に乗ってるのはコールスロー
 今年のホタルイカは美味しいらしい。実際、美味しかった。酢味噌和えにしてしまったのが、少しもったいなかったかもしれない。
 ズッキーニの浅漬けは『きのう何食べた?』で知って以来よく作っている。キュウリよりも優しい歯ざわりで、中々に美味しい。バリバリ飯を作っているせいで、段々自分が筧史朗めいてきているような気がする今日このごろ。僕の見た目は若先生ですが……

スモークサーモンのサンドイッチ

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 土曜日は、こういう朝ごはんで始めたい。仕事のない土曜日の朝に、コーヒーを入れるためにお湯を沸かしている時間というのが、僕は一番好きな時間かもしれない。というか、お湯を沸かすというのは良い。お湯を沸かしたあとで、嫌なことが待ち受けているというのはあまりないだろう。
 頼まれもしないのに、3人分のサンドイッチを作っている。いやでも、スモークサーモン余らせたってしょうがないじゃない。オニオンスライスも、ねえ。

たこパ

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 連休なのにどこにも行けないかわいそうな我が家の男たちのため、たこ焼きパーティーを開いた。せっかくなので変わり種として、イナゴの佃煮を入れてみたりもした。これが案外美味しい。ぜひお試しあれ、とまでは言わないが。
 刺し身とビールがあるのは、臨時収入があったため。予想通りに走ってくれたお馬さんに感謝である。皐月賞天皇賞(春)でね、連勝したんですわ。ウェッヘッへ。かしわ記念のことは聞かないように。
 それにしたって、競馬場に行きたい。いつの日かまた、そんな日々が来ますように。

僕はなぜ神谷奈緒とメヒコでフラミンゴを見ながらカニピラフが食べたいのか

 神谷奈緒とメヒコでフラミンゴを見ながらカニピラフが食べたい。

 と、いうようなことを僕は数年前から公言している。戯言、妄言の類いだと思っておられる方も多いかもしれない。神谷奈緒と、カニピラフ。メヒコで、フラミンゴ。これらの単語が即座に結びつく方はそう多くはないだろう。いや、ない。多くあってくれたらそれはそれで困る。神谷奈緒とメヒコでフラミンゴ見ながらカニピラフ食べたい、などと言い出すやつが世界で僕の他にいるというのも、それはそれで恐ろしい。
 変なオタクが変なことを言っている、という認識で間違ってはいないのだが、根拠のない妄言というわけではない。少なくとも、僕の中には神谷奈緒とメヒコでフラミンゴ見ながらカニピラフを食べたい理由がある。僕がいかに変なオタクと言えど、なんの根拠も理由もなしに17歳の少女を、フラミンゴが店内で飼われている福島茨城ローカルのファミレスに連れ込んで、自分で殻をむかなければいけないカニピラフを食わせようとするほどの異常者ではない。そんなやつが世界にいるとしたら許せない。
 では、なぜ僕は神谷奈緒とメヒコでフラミンゴを見ながらカニピラフを食べたいと思うのか。その理由を明らかにしたい。お気づきかもしれないが、今回は徹頭徹尾怪文書である。

youtu.be

 神谷奈緒については、まあ割と説明はいらないかもしれない。『アイドルマスターシンデレラガールズ』シリーズに登場するアイドルである。千葉県出身の17歳。やたらと毛量のある髪を前でぱっつんに切り揃え、その下には太めの眉毛が覗いて可愛らしい。「正統派ツンデレ」と言われるほどにわかりやすく恥ずかしがりのキャラクターであり、最初は嫌そうなことを言いつつも段々とアイドル活動に前向きになり、輝きを見せるさまはまさにシンデレラガールである。ちなみに趣味はアニメ鑑賞。かわいいね。一緒に銀河英雄伝説を見よう。なんだこれ。多分、神谷はミュラーが好きだと思う。それかワーレン。

 とまあ、ここまでは神谷奈緒を知っている方にとっては疑念を挟む余地のない共通認識だと思う。じゃあ、ここからは?僕の感じる神谷奈緒の持つ魅力についてだ。
 神谷奈緒というのは、なんというか「近さ」のあるアイドルだと思う。「近そう」でもいい。もちろん架空の人物であるから存在などしないのは当たり前なのだが、もしも存在したら実はとても近くにいるのではないか、そんなことを思わせる。「会いに行けるアイドル」というのが言われるようになって久しいが、神谷奈緒には会いに行く必要がない。会いに行けないけど。でも別にいい。だって、ほら、そこに神谷いるじゃん。

 なので、神谷奈緒にはしっかりとした日常があってほしい。しっかりとした日常を感じさせてくるのだ。家は馬橋で、千代田線直通の常磐緩行線で通学している。新御茶ノ水中央緩行線に乗り換えるから、10号車に乗りたいけど死ぬほど混んでいるから8号車の後ろよりに乗るようにしている。松戸始発の電車を狙うこともあったけど、最近は面倒くさくてやめた。とか。神谷奈緒が毎朝、新御茶ノ水のあのクソ長いエスカレータに乗っているところを想像してみなさい。間違いなく、イヤホンをしている。手に持っている単語帳は何だ。DUOではないだろう。シス単か。どうだ、容易に想像できるだろう。僕は神谷奈緒の、そういうところが好きなわけだ。

 神谷奈緒について蛇足のような説明をしたところで、多くの人が疑問を持つのはその先だろう。

 メヒコって、何だ。

 フラミンゴがなぜ出てくる。

 なぜカニピラフなんだ。

 神谷奈緒と、どう関係があるんだ。

 それらを全て明らかにしてやる。

 そもそもからして、メヒコをご存じない方が多かろう。メヒコは、主に福島県茨城県に展開しているシーフード料理主体のレストランだ。東京都にも数店舗ある。
www.mehico.com

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 メヒコの看板メニューといえばカニピラフだ。ズワイガニが殻付きのまま「ドン」と乗って出てくるそれは、見た目のインパクト抜群。これをほぐしながら食べるのだ。かつて同居人に「嫌がらせピラフ」と言われたことがある。殴るぞ。ほぐしてから出してもらうこともできるのでご安心を。でもやっぱり、殻付きの方が「メヒコのカニピラフ」という感じがする。
 そしてメヒコといえば、フラミンゴだ。何を言っているか意味不明な人も多いかと思うが、メヒコといえばフラミンゴなのだ。
 メヒコの店舗には、「フラミンゴ館」と名前のつくものが存在する。なんとこのフラミンゴ館、店内でフラミンゴが飼育されている。そう、鳥の。ピンク色の。冷えるから片足で立ってる、あいつ。正気か。
 というわけで、メヒコではフラミンゴを見ながらカニピラフを食べることができる。はい解決。やったね神谷。メヒコでフラミンゴ見ながらカニピラフ食うぞ。

 僕は幼少期に福島県の郡山に住んでいたことがある。2歳から、幼稚園の年中まで。北千住に来たのは実はその後だったりする。母方の実家はずっと千住だったけど。
 そんな頃の思い出に、メヒコに行ったことがある。メヒコ郡山フラミンゴ館。当然、フラミンゴがいるわけだ。フラミンゴを見ながら食事をする。これはもう、端的に超絶体験だ。ちなみに妹はこれをきっかけに首の長い鳥全般が生理的に嫌いになった。
 メヒコというのは、価格帯としてはいわゆるファミレスよりも少し上だ。かといって、寿司やすき焼きのように完全にハレの食事の場というわけでもない。日常の延長線上に存在する、フラミンゴつきの異常空間。そんな魅力に溢れたところがメヒコだ。
 神谷奈緒の魅力とは、近さだ。確固たる日常があり、それは当然自分の日常ともリンクする。そんな日常の延長線上にある「異常」を、一緒に体験したい。
 だから、僕は今日も言うのだ。
 神谷奈緒とメヒコでフラミンゴを見ながらカニピラフが食べたい。

 以下、お料理のコーナー

からしなます

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 新潟県は南魚沼の郷土料理である。
 僕はよく「母方の田舎が南魚沼」というようなことを言っているのだが、まあ当然これは嘘だ。母親が家族ぐるみの付き合いをしている友人の出身が南魚沼の塩沢で、その影響でよく塩沢に行ったりする。南魚沼の物を買ってきたり、南魚沼の料理を作ったりする。そういうわけで僕のレパートリーの中にも、この南魚沼の郷土料理が存在しているという訳だ。

www.shokumachi-uonuma.jp


 ざっくりした作り方としては、水で戻した切り干し大根に、練りごまと練りからしを合える。練りごまは、ぜひとも欲しい。でも無ければ、最悪ごまドレッシングでもいける。別物になるけど。練りからしは、「こんなに入れていいの!?」と引くくらい入れるのがコツだ。大丈夫。思ったよりも辛くならない。
 保存も利くので、一風変わった常備菜にいかがだろうか。暑くなるこれからの時期向けの料理だと思う。ちなみに、キリッとした新潟の酒に合わせると最高だ。鶴齢とかがいいですね。

とりすきと、翌日のおから

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 愛すべき友人から誕生日プレゼントとしてもらった京野菜の中に、よさそうなネギと春菊があった。それにしめじも。となれば、すき焼きをしたくなるのが人情だろう。
 すき焼きがしたくとも、牛肉を買う金はない。すき焼きだけは安い牛肉で作ってはいけない。となると、鶏肉の出番になるわけだ。
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 すき焼きをしたら、翌日におからを煮る。これはどうも我が家に独特の風習らしい。肉やらネギやらの旨味が出た割り下を捨てるのはもったいない。そこでおからを煮ると、その旨味が見事なほどに染み込んでべらぼうに美味いおからになる。ぜひお試しあれ。

おうちハンバーグ

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 ハンバーグは買ってきたほうが早い。そりゃあそうだ。ではなぜ、人は自分でハンバーグを作るのか。僕の理由は、「具材が粗いハンバーグが食べたい!」だ。あとは、ハンバーグがでかいと嬉しい。
 粗挽き肉に、粗みじんにした玉ねぎを生で入れる。食べていて食感が嬉しいハンバーグになる。玉ねぎを炒めないぶん、調理手順の短縮にもなるので言うことなしだ。パン粉がカビていたので食パンをちぎってつなぎにしたのも、良い判断だったと思う。
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 ソースは焼いた際に出た肉汁に赤ワイン、ケチャップ、ウスターソースを入れて煮立たせただけのものだが、同居人たちには「デミグラスソースだ!」と喜ばれた。洋食屋のデミグラスソースとしては全く間違いではない。

端っこと境目

 「橋ハ端ッコ、坂ハ境ヒ目」という言葉が、塚原重義監督のアニメ『端ノ向フ』に出てくる。
 橋にしろ坂にしろ、異なる2つの場所を繋ぐものである。その意味でまさしく「端っこ」であり「境目」というのは的を得ているだろう。
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 僕の実家というのは足立区のいわゆる「北千住」と呼ばれるところだ。なぜ「」つきで書くかというと、実は北千住という地名は行政区画の上では存在しない。荒川区にある南千住と異なり、本当のところは方位をつけず単に「千住」という。
 この千住というところは、実はどこに行くにも橋を渡らなければならない。北を荒川放水路、南を隅田川に挟まれた大きな中州のようになっているのが千住というところだ。
 どこからどこまでを「地元」というかにおいて、僕の中で境界になっているのは間違いなく川であり、橋だ。橋を渡ると隣町。千住大橋ならば南千住だし、千住新橋だったら梅田・五反田。西新井橋に尾竹橋、堀切橋に綾瀬橋。
 地図の上では小台や宮城、それに新田といった、千住と同じように荒川放水路隅田川に挟まれた足立区の地区には橋を渡らずとも行くことができる。しかし、これらの地区は交通の点では王子や赤羽といった北区の駅との結びつきが強く、千住に育った僕からしたら地域としての連続性に乏しく思える。
 小学生の頃、橋を渡るというのは一大イベントだった。いや、電車で塾通いをしていたから日常的に川は渡っていた。徒歩、ないし自転車で橋を渡って隣町に行く、というのが間違いなく冒険だった。
 特に区を跨いだ時は軽い異世界旅行だ。すぐ隣のはずの荒川区墨田区でも、自分の住んでいるところとは何かが、何かが違う。それは、街中に貼られている選挙ポスターの顔ぶれだったり、看板の隅に描かれている区のシンボルマークだったりする。全体的には見慣れた東京の「下町」の景色のようで何かが違う、というのは、なんとなく夢の中にいるようで心がざわついたのだった。この心の引っ掛かりは、僕にとって色々なところに影響を及ぼしているような気がする。


 冒頭で紹介した『端ノ向フ』でも、橋を渡ることは大きな意味を持つ。その意味とは何なのか、本当にいいアニメなのでぜひとも視聴した上で見つけてみてください。ちなみにこの作品の舞台、僕の実家のすぐ裏で、まさしく僕にとっての「橋の向こう」だったりする。
iyasakado.official.ec


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 さて、橋に対して坂というものを意識するようにったのは結構遅い。何せ、千住というところには坂らしい坂が全く無い。沖積平野だからね。
日常的に坂というものに触れるようになったのは、中学に入った頃だと思う。僕の通った中学・高校というのは港区元麻布の高台にあって、どの駅から通うのにも坂を登らなければならなかった。最寄り駅とされているのが日比谷線の広尾で、そこからは南部坂や北条坂をえっちらおっちら登っていくのだ。坂がないところで育った僕は次第にこれが嫌になり、一番坂がゆるやかな六本木で電車を降りるようになった。僕がよく人に「毎朝六本木ヒルズを通って通学していた」というのの理由である。
 とまあ、こんなふうに日常的に坂に触れるようになって気づいたことに、「都会の坂には名前がついている」というものがある。これは僕にとっては新鮮なものだった。
 先に上げた北条坂・南部坂というのは、どちらも江戸時代に付近に大名屋敷があったことに由来する。ここから、麻布一帯の高台が武家地として利用されていたことがわかる。坂に注目して歴史地理学めいたことをする、というのがちょうど流行っていた時期でもあった。
 開放河川という視覚的に実に明確な境界をまたぐ橋に対して、坂が2つの地域を繋ぐ様子というのは実にゆるやかだ。小さい、短い坂ならばささやかなものと言いかえてもいい。でもまあそれが坂の良さなのかもしれない。
 
 今住んでいる家というのは、まさに坂の途中にある。斜面に建っている一軒家だ。
 ここに住むまで、赤羽という街に対するイメージは主に飲み屋の多さだった。安くて美味い飲み屋がいっぱいあって、午前中から酒が飲める。『孤独のグルメ』で描かれていたあれだ。
 現在の同居人の一人となる男から場所を教えられ、初めて家に来たときは驚いた。赤羽はこんなにも坂が多いところだったかと。前述の飲み屋街は赤羽駅の東口なのに対して、今の家は西口にある。こちら側はまさに武蔵野台地の端っこで、平野と台地の境目なのだ。GoogleMapの教える最短ルートは、ヒトデの腕のように伸びた台地をいくつも跨ぐものだった。ふと視界が開けると、眼下というほど下でもないところにべったり屋根が張り付いているのが見えて、違う街に住むのだという実感が沸々とわいた。
 坂を登りきると、そこはちょっとびっくりするほどのお屋敷街だった。坂の下と上で、家の大きさが全然違うのだ。つまり「ああ、坂は境目なんだ」と初めて理解ができたのは、実はけっこう最近のことなのである。

 以下、お料理のコーナー

ガンボライス その他

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 ガンボというのは、まあざっくり言えばルイジアナ州のオクラ入りトマトスープである。スパイスをガッツリ使ってとろみがついているとなれば、ご飯に合わないわけがない。実際カレーやハッシュドビーフと同じ感覚で食べることができる。これから夏にかけてオクラが安くなるかと思うので、カレーに飽きたらぜひおすすめ。作り方は以下。
 


 左にしいたけが写っているが、大きなしいたけを焼いただけのものに醤油を垂らしてかぶりつくというのはいい。端的に幸せだ。ツナマヨを盛って焼くのもひとしおだ。この美味さを味わえないのだから、しいたけ嫌いの方は人生の40%を損していると言っても過言ではない。これは冗談ではないのだ。

ボウルに一杯のポテサラ

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 僕の作るポテトサラダは、じゃがいもを酒瓶で潰している。今回は黒霧島だった。別に銘柄にこだわりはなく、手近にあるものを使うだけだ。
 同居人が買ってきてくれたポテトマッシャがどうにも使いづらく、酒瓶にビニール袋を被せた物の方がはるかに具合がいいのだ。味付けは、ほぼマヨネーズ。甘いポテサラが嫌いなので、砂糖はほんの少しだけ。

パンプディング

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 まあ要するに、フレンチトーストの寄せ集めバージョンみたいなものだ。冷凍庫に残った食パンが余っていたので、それらを一掃するために作った。月曜の朝に。結局のところ、暇で暇でしょうがないというわけだ。

春はたけのこ

 仕事がない。いやまったく、困ったものである。
 すべてはあの、忌々しいCOVID-19とやらのせいである。僕はいわゆる教育業界で飯を食っているため、その影響で今は仕事が一切ない。今後どうなるのかもわからない。考えたってしかたがないので、僕は早々に気持ちを切り替えて家事に勤しんだり、引っ越し以来封印していた模型いじりを再開したりしている。
 いつの日かまた競馬場で大声を出したり、飲み屋で馬鹿話をしながらレモンサワーをひっくり返したり、カラオケでBe My Babyを踊り狂える日が来るのだと信じるしかない。全ての戦う人々に敬意を、困っている人に連帯を示したい。政府は税金を返せ。
 
 終わりの見えない異常事態の中で、それでも日常を生きていかなければならない状況というと、やはり内田百閒の『東京焼盡』を思い出してしまう。今の情勢を軽々しく戦時中と比べるべきでないという意見もあるかもしれないが、それでもやっぱり思わずにはいられない。
 『東京焼盡』は戦時中の百閒の日記をベースとした、暮らしの記録である。百閒らしく、食べ物、酒、そして煙草にまつわる話に溢れている。
 百閒の書く、食べ物の文章が僕は好きだ。『御馳走帖』という食べ物・酒・煙草にまつわる話をまとめた百閒の随筆集がある。もしも無人島に1冊しか本を持っていけないのだとしたら、僕はそれを選ぶと思う。それくらいの「好き」だ。なぜこんなにも好きなのか考えたところ、思うに百閒が「美食家」ではないからだと思う。
 百閒は「美味しいもの」が好きというよりは、「自分の好きなものが好き」という人だと思う。「好きなもの」を「愛するもの」と言い換えてもいい。実は美食家という人たちのことをよく知らずに苦手意識を持っているのだが、「かまぼこの板に包丁を立ててがりがり削ったものに生姜醤油をかけたもの」に対する愛を語る人のことを美食家と言うだろうか。言うのならごめんなさい。ちなみにこれは、『御馳走帖』の中の一編に登場する。本当におすすめな本です。
 食べ物以外にも鉄道・小鳥・猫など、百閒の随筆の中には自分の好きなものに対する愛が溢れている。百閒は間違いなく、愛に溢れた人だ。好きなものを好きと言えるのは大事だし、なぜ好きなのか、どう好きなのかを語れたらかっこいい。僕はそのへんがわりと苦手なので、もっとかっこよくなっていきたいと思ってはいるのだ。
 
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 今日は、天ぷらを揚げた。実家を出て自炊をするにあたって立てた自分ルールの一つに「揚げ物をしない」というのがある。実際、8ヶ月の自炊生活で揚げ物をしたのは今日で3度目である。
 なぜその誓いを破ってしまったのかというと、なんと京野菜が届いたからだ。段ボールで一箱。たけのこ、たらの芽、こごみ、エトセトラエトセトラ。ワオ。ワオワオワオ。これはもう、天ぷら以外にどうしろというのだ。だって、たらの芽って天ぷら以外にどう食べたらいいのか知らないもん。実際何かあるんでしょうか。
 単純に面倒くさいがために揚げ物をしたがらなかったのだが、天ぷらというものがこんなにもテンションの上がるものだとは知らなかった。テンアゲだから天ぷらというのは、古くは江戸時代から言われている。嘘だけど。煮えたぎる油にタネを落として、ショワショワと揚がってゆくところを見ているのは実に景気が良い。今の天ぷら粉はすごいので、袋に書いてあるとおりに作るだけでちゃんとした天ぷらが出来上がった。ちょっと本気で揚げ物環境を作ることを決意させるくらいの魅力が天ぷらにはあった。
 春はたけのこ、とは清少納言も言っていない。でも、新物のたけのこが来たのに、たけのこご飯を炊かないというのは嘘だ。これに加えて菜の花のおひたしも作ったら、もう完全な春御膳である。新橋と銀座の中間くらいの薄暗いお店で食べたら9000円くらいするかもしれない。食べたこと無いけど。
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 しかし、よくもまあ自炊歴8ヶ月でここまでするのだと、我ながら呆れるところも無いではない。

 京野菜は、愛すべき親友からの誕生日プレゼントである。親友の友人に京都の八百屋がおり、そこから送ってもらったものだ。持つべきものは友である。いや本当に。
 最近は色々な物の入手に「伝手」を使うようになってきた。マスクは歯科衛生士の母親から入手したものだし、米だってこれまた素晴らしい友人が30kg担いできてくれた。持つべきものは実家が農家で釣りが趣味の友人である。いや本当に。
 それにしても30kgの米が家にある、というのはいい。わかりやすい安心感がある。ただ、伝手で手に入れた米というのもいよいよ戦時中じみてきたな、と思うのも事実である。明日もまた、この「ヤミ米」を食べて生きていく。

 あ、ちなみに僕の誕生日は4/25です。なにとぞ。


 以下は、前回の更新以降作った料理の中で、評判の良かったものや書きたいものについて書くコーナーである。定番化するかもね。

キノコのポタージュ

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 実家に帰ったら立派なブラウンマシュルームをせしめることができたので、フードプロセッサで砕いてポタージュにした。生クリーム使ってないけど。
 フードプロセッサというのは本当にすごい。発明者はちゃんと歴史に名を刻まれているのだろうか。こいつがあると無いとでは、調理の効率が段違いだ。あってよかったフードプロセッサ。ちなみにこれは同居人の持ち物だが、そいつが使っているところは見たことがない。

春キャベツのもつ鍋風炒め

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 春キャベツ、ニラ、玉ねぎをにんにくと中華だしペーストで炒め、仕上げに醤油とゆずこしょうで味付けする。味はほぼもつ鍋。実際、材料がもつ鍋だもんね。「二次会にお誂え向きな宮崎コンセプトの居酒屋の定番メニューにありそうなノリのもの」とは同居人の談である。

カツオのたたきと新たまねぎのサラダ 甘藷と鶏ひき肉の煮付け

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 「今カツオがうまい」というので買ってみたが実際美味しかった。春は新玉ねぎをモリモリとたべなければいけない。食べなければいけないものが多いのが春である。
 同居人の実家ではさつまいもをおかずに仕立てる文化がなかったらしく、新鮮な味だったらしい。醤油で甘辛くなってれば何でもおかずになっちゃう、というのは僕が純粋培養の関東人だからかもしれない。カレーは牛肉だけど。
 
 

暮しの手帖

 引っ越した、というのが去年の8月のことである。
 このブログの前のエントリが2018年の9月。北海道で地震に遭遇して、東京までほうほうの体で帰ってきたときの話だから、いやまあずいぶんと放置したものである。
元来筆まめな方では全く無いし、放置している間に色々とあったのもまた事実。知っている人は知っているし、言うかもしれないし言わないかもしれない。
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 と、いうことで引っ越したのだ。北千住から赤羽へ。荒川を少し遡った。
 移動としては大した距離ではないのだが、僕にとってはとてつもなく大きな意味のある引っ越しだ。
 なにせ、初めて実家を出たのだ。

 今は、武蔵野台地の端っこにへばりついた一軒家を借りて、男三人で暮らしている。
 人には「シェアハウス」と横文字を使って説明するが、住んでいる実感としてはいわゆるそういう感じはしていない。
 漢字で書けば「雑居」だが、これではトイレに行く際に「願いまーす!!!」と声を張り上げていたり、春雨スープに入った肉の量を比べて「ビューだよ。ビューだよ。」などと言っていそうな感じになってしまう。第一、雑魚寝をしているわけではない。
 かといって「同居」という感じでもなく、ましてや「同棲」では決して無い。まあなんというか、結局のところ「一緒に住んでいる」と言うしか無いような暮らしだ。
 8ヶ月、そんな暮らしをしてみて……ごめん、嘘。ほんとは最初の2週間くらいで気づいたことなのだが、僕はかなり「暮らし」が好きらしい。
 「ていねいな暮らし」をしているつもりは全く無いし、まあしていない。それでもやっぱり、他の二人を見ていると逆説的に「俺は暮らしが好きなんだな」と思わされるのだ。これは別に同居人の「暮らし」に対する解像度の低さを責めるものではない。いやまあ、最初はあれだったけど、もう慣れた。冷蔵庫に塩が入っていた時はクソでかいため息をついたけど。

 考えてみれば、もしかしたら「暮らしが好き」というのは僕にとってかなり根幹を成すものなのかもしれない。
 子供の頃は、かなり「おままごと」が好きな子供だった。妹に買い与えられたはずのおままごと用のおもちゃを、熱心に遊ぶのはだいたい僕の方だった。
 「知らない土地に住んでいる人が、自分とは別の暮らしをしている」ということに対する興味は、趣味のローカルCM視聴から、大学で人文地理学を専攻するところまで様々なところに影響を及ぼした。
 僕は交通機関、特に鉄道が好きなのだが、それらの何に魅力を感じるかといえば「土地と土地を繋ぎ、人や物を運ぶことで生活を支える」ことである。
 僕からしてみたら人間というのは「暮らす」生き物であり、そうでない存在には苦手意識や嫌悪感を覚えることすらあるくらいだ。

 そんな僕だが、実家にいるときはといえば別に家事をしていたわけではない。ハイパー家事できる人間である母がいたからだ。そう、毎年クリスマスになるとシュトレンを焼くうちの母である。
 実家を出る前、母は僕の生活能力を全く疑問視していた。まあ、無理もない。実家における僕の部屋といえば、まあひどい有様だったのだから。良く言えば大学の教授室、悪く言えばゴミ屋敷といった具合に散らかり放題だった僕の部屋を散々見てきた母に、息子の生活能力を信じろというのはそりゃあ無理だ。まあ今の部屋だって相当に散らかってはいるのだが。

 引っ越してから2週間くらい経った頃だったか、実家に帰った際にふと母に聞いたことがある。
 「ふきんをハイターに浸けるのって、どのタイミングでやるの?」
 我が家では、使用したあとのふきんを台所用漂白剤に一晩程度浸け置きしてから洗濯する習慣がある。このやり方について聞いたところ、僕の生活能力に対する母の見方がガラッと変わった。「あ、こいつ、私のやっていることを案外ちゃんと見ていたんだな」となったのである。
 「見えない家事」という言葉があるが、実際にはそんなものはない。見ていないか、見ているか。「暮らし」というのは、実に様々な家事に支えられている。そういうものにある程度気づけていたのは、間違いなくプラスだった。そう思って、今日も寮母さんさながらに男3人分の食事を作っている。

 去年の秋、同居人の一人と「見えない家事」についての話をしていた。
 僕は換気扇の下で煙草を吸っていて、そいつは隣の流しで飲み終わった牛乳のパックを手で引きちぎっていた。
 おいおい、牛乳パックというのはな、洗ってな、キッチンばさみでこう切り開いてな、乾かして回収ボックスに持っていくんだ。お前の目の前に俺がそうやって開いたパックが溜まってるだろ。
 最近、ちゃんとハサミを使うようになった。人というのは成長する。まだ切り方は甘いけどね。