濹堤通信社綺談

江都の外れ、隅田川のほとりから。平易かつ簡明、写真入りにて時たま駄文を発行いたします。

草むらのヒーローに会いに

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 「草ヒロ」という言葉がある。僕はその言葉について漠然と、「草むらに放置され錆び付いた廃車体」という理解をしていて、実際それは間違っていない。でも、なぜそういう廃車体を「草ヒロ」と呼ぶのか、はじめは疑問も感じたのだろうがいつしか何も感じなくなっていた。
 で、最近ようやく「草むらのヒーロー」の略なのだ、ということを知った。なるほど納得そのとおり、錆び付いた廃車体は「草むらのヒーロー」そのものに他ならない。
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 僕の育った街には草むらなどというものはなく、それらしいものと言えば荒川の河川敷くらいなものだが、廃車体なんてなかった。でも、父の運転する車で少し郊外に出たりすると、途端に国道の脇に錆び付いた廃車体がいたりする。畑の中の軽トラック、ラーメン屋だったと思われる原色に塗り潰された古いバス、物置がわりに使われている(た)、すっかり色褪せた国鉄コンテナ。ワムだったりするともう最高。
 とまあ、ここまで書いてみて思い出したのだけれど、僕の街にも廃車体はあった。草むらではなく、スクラップ置き場の隅に。国鉄の、古い客車が輪切りになって転がっているはずだ。古い客車にはおなじみのキャンバス地を貼った木製の屋根がすっかり朽ち落ちていて、夏になるとチョウセンアサガオだかなんかが絡みついて咲いていたりするのだ。

 廃車体はなぜいいのだろう。考えて答えを出す程でもない、と思うので考えない。とにかく、廃車体はいい。草むらのヒーローだ。わかんない人にはわかんないでしょうけどね。でもやっぱり、廃車体はいいのだ。

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 そんな草むらのヒーローを作ってみた。手癖で。いや、「手癖で」って言いたかっただけ、という部分はあります。すいません。Twitterでイラストを描く人の「手癖」に対して素朴な憧れがあり、「ぼくも手癖で何かつくりたい!!!!!」と泣きわめきながらデパートの床を転げ回っている時に思いついたのがジオラマだった、という話である。
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 ことの始まりは電球型のボトルというものが流行りだして、百均で売られているのを見たときに「この中にジオラマ作ったら何やらとってもカワユイのでは???」と思ったのがきっかけ。初めダイソーで売られていたのはガラス製のボトルで、これはボンドが全くガラスに付かず失敗。その後セリアでプラスチック製のボトルを見つけて、ダイソーでも売るようになり、しこたま買い占めたはいいもののその気になれず放置して、気づけば1年近く経っていた。
 でも手癖なのは本当で、新しい技法のチャレンジなどは何もしていない。ジオラマ(特に鉄道模型の)を作ったことのある人ならば、容易に想像できる方法だ。もし知りたい人は、鉄道模型レイアウトのハウツー本かなんかを読んで下さい。

かんたん!30日でつくる Nゲージ鉄道模型ミニレイアウト

かんたん!30日でつくる Nゲージ鉄道模型ミニレイアウト

 (ちなみに↑はアフィリエイトではなく、このリンクから購入された場合でも僕にはびた一文も入ることがない。本当にただのオススメである)
 
 特筆すべきことを言うならば、地面のベースになっているのは、コーヒーの飲み殻を乾かしたやつ。ただこれはオリジナルという訳でも何でもなく、今よりもジオラマ製作材料が豊富でなかった時代ではそれなりに知られた方法だったようだ。たしか名作パイクの『カステラ箱のレイアウト』でも使われていた気がする。1杯ぶんをドリップするタイプのものが、粒が細かくてよろしい。ボトルの内側底にボンドないしマットメディウムを塗り、コーヒー飲み殻を適量流し込み、ボンドないしマットメディウム(マットメディウムなのだが)を水に溶き、中性洗剤を混ぜたものをスポイトで垂らして固着する。口が狭いので、水分が蒸発するまでにはそれなりの時間がかかる。
 あと、個人的な「縛り」として、今回は瞬間接着剤を使わなかった。ボトルの内側が曇るのが怖かったのではあるが、おかげで随分と大変だった。f:id:miko_yann:20180214221542j:plain
 ボンドの固着にずいぶん時間がかかることが判明したので、実は同じようなものをいくつか同時進行で作ったりもした。広口瓶型のボトルの方が圧倒的に作るのは楽なのだが、見栄えを考えるとやはり電球型のほうがいいな。実際かわいいでしょ?

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 とまあ色々作り散らかして、一番気に入ったのが結局この草むらのヒーローだった。コーヒーにアイリッシュ・ウィスキーなど垂らして、机でこいつを眺め回しているのは、思ったよりずっといい時間である。傍から見たらオタク行為以外の何物でもないけど。
 
 あ、もし似たようなのが欲しいという方がいたら作るので、ご一報願えれば幸い(本気)。

俺は焚き火をした。お前は?

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 火を、燃やした。
 もっとちゃんと正確に何をしたのか言うならば、男5人で真冬の西丹沢の山奥に行って焚き火をしつつ酒を飲んだりした、ということである。

 かねてより、焚き火というものに対する憧れがあった。
 youtubeで焚き火が燃えているだけの動画を3時間見ていることもあったし、椎名誠の『あやしい探検隊北へ』などはそれこそ擦り切れるまで読んだ。
 「晩秋の山の中、揺れる焚き火の横でホーローのマグカップに注いだアイリッシュウィスキーなどを舐めつつ、オレンジに照らされた君の横顔を眺めていたのに気づかれて、気まずくなって見上げた空に満点の星が散りばめられているのに気づいたりしたい……」などと繰り返し焚き火に対する憧れの情景を明らかにしていたところ、「おーいいね!」と言ってきた男がいた。その名をのうやくんと言う。
 中高の同期であり、しょっちゅう会っては飲んだり歌ったり踊ったり二人で香港に行ったりした仲ではあるのだが、僕とこの男の組み合わせには「何も決まらない」という重大な欠点があるのであった。
 「焚き火したい」「おーいいね!」
 「計画を詰めよう」「詰めるぞ!」
 「これ決まんないぞ」「決めるぞ」
 「また決まんないぞ」「今度こそ決めるぞ」
 「また決まんないぞ」「決める」
 などと居酒屋、カラオケ、居酒屋、イングリッシュパブなどで幾度にも渡る(不毛な)会合が開かれ、ようやく計画らしいものができたのは、開催の二週間前という有り様であった。なお、決まったあともキャンプ場の予約が取れずに急遽別のキャンプ場に切り替えたなどもあったがそれはそれ。ともかく無事に開催の運びとなったのであった。

準備、あるいは終わりの始まり

 前日はもう遅くまで眠れず、当日は朝も早くから起き出して、待ちわびていた遠足に行く小学生のような有様であったのだけれど、まあ精神年齢は小学五年生とあまり違いはない。眠れなかった原因は荷造りの困難さのせいなのだ。まず、「荷造りをせねばならんな」と思っているうちに23時を過ぎていた。そこから九龍城の如く物が無秩序に積層している部屋から、やれチェコ軍のメスキットだ、やれキャプテンスタッグのガスストーブだといった「今まで買ったはいいが使う機会がなくほったらかされていた物」をここぞとばかりに探し出してきたらもう0時半である。部屋の片隅でホコリをかぶっていたメスキットや、今回のために百均で買ってきた果物ナイフ・キッチンバサミを始めとした調理道具、東急ハンズで買ったホーローっぽい見た目のプラスチック製マグカップ、そしてのうやくんという男のために買った「ちろり」など様々なものをキッチンで洗っていたら、さあもう1時な訳である。
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 「これは荷造りせねばなるまい」とまたもや部屋から45Lのリュックサックを引っ張り出し、必要だと思われるもの全てを詰め込み、入らず、それでも詰め込み、ようやく形になったのは3時近くだったのだ。翌朝の寝過ごしがあまりも怖かったので、リビングのソファで寝たのだけれど、功を奏して必要以上に早起きすることができた。と言うより3時間しか寝れなかったのだが。

 憧れだった焚き火を前に完全にロマンティック浮かれモードだったので、個人的にお土産の定番にして鉄板だと固く信じている千駄木腰塚のコンビーフを買い、もう徹底的に非日常に浸ろうと思った挙句新宿駅からロマンスカーに乗って旅立ったのである。
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 「ロマンスカーとは走る喫茶室である」という固定観念に捕らわれている人間なので車内販売で紅茶を頼み、腰塚のルーベルサンドと一緒に優雅に楽しんでいたら小田原に着くのは一瞬のこと。東京の東側に住む人間にとって、ロマンスカーに乗るというのはやっぱり一大事なのである。買い出し拠点に選んだ棒倒しの好きそうな駅は小田原の手前だったので戻った。
 買い出し~キャンプ場到着までの顛末は、のうやくんのブログでも読んでいただければ幸い。まあ大したことはしていない。
mounungyeuk.hatenadiary.jp

夜、あるいは狂宴

 雪の残る西丹沢の山奥のキャンプ場に着いて、もっぱら僕は火おこしをする任に着いた。なにしろ焚き火をする気満々で、衝動買い同然に焚き火台まで買ったのだから当然である。言い忘れていたが、今回のキャンプに大きく影響を与えているのが『ゆるキャン△』である。図ったかのように1月から放送開始したこのアニメの威力たるや凄まじく、1人のオタクに焚き火台まで買わせてしまうのだ。あと折りたたみ椅子も買った。
 『ゆるキャン△』の1話で、登場人物の志摩リンはいとも簡単に焚き火を行う。しっかり視聴してきたので、焚き付けには松ぼっくりが最適なことも知っている。さあ焚き火だ!
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 ……と、思ったがこれがまあ見事に火がつかない。まず、松の木がないので松ぼっくりがない。周りを見渡すと杉の木がワサワサ茂っているので、杉の枯れ枝や杉の子などを集めてきたものの、雪のせいで湿っているのか薪に火が着くほどの火力をもたらしてくれないのである。「文化たきつけいる?」などと言っていた道民ちゃんの声が脳内を駆け巡る。志摩リンは異常に手際がいいのだ。そして焚き火にロマンティック浮かれモードなだけのオタクは異常に手際が悪い。当然のことであった。
 悪戦苦闘しつつ、なんとか薪と炭に火をつけることに成功した頃には、すっかり遠き山に日は落ちて星は空を散りばめんといった雰囲気なのだ。決め手になったのは段ボールだった。焚き火をするときには段ボールをバンバン燃やせ。
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 「正気か???」と脳が訴えてくるような雪の残る真冬の山奥であっても、外で肉を焼くのは気分がいい。牛肉はやはり美味いのだ。そしてシイタケの傘の内側にマヨネーズを塗りたくり、醤油を垂らしながら焼いたのをあっちあっちと言いながら食べるのは最高に美味い。シイタケが嫌いだという人は、これが食べられないというだけでどれだけ損をしているか思い知るべきである。そして何よりキリンラガービールが美味い。のうやくん謹製の火鍋は鯛のアラがひたすら食いづらく、火鍋なんだか闇鍋なんだかよくわからないものに成り果てていた。
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 そして念願の焚き火である。揺れる炎は二度として同じ姿をすることはなく、そしてただひたすらに暖かいのだ。肉に燃える蒸留酒に闇鍋にと、寒さと暗さと静けさに包まれた山の中で思い思いにはしゃいでいた男たちも、いつしか焚き火の周りに集まっては「焚き火、いいな……」「いい……」「素朴な信仰だよな……」「灰は残り火を求めるんだよな……」「ほんまええ買い物したわ……」などと優しい顔でホッコリするようになったのである。

 ところで僕は前日、リビングのソファで3時間しか寝ていない。それに酒に強い方でもないので、燃える火の酒のせいもあって「もう無理!!!!」と悲鳴を発する体を無視するわけにもいかず22時過ぎには寝ることにした。床暖房に灯油ストーブつきの「ハイアットと変わらない」コテージとはいえ、寒いものは寒い。というか尋常ではなく寒かった。マットレスを2重にして、足にはストールを巻きつけ、コートを着て首にはアフガンストールを巻き、頭にはソ連軍の帽章つきウシャンカを被って完全防備をして寝た。

朝、あるいは贅沢

 早寝もあって5時頃には目覚めた。一番の早起きクマさんかと思ったら、階下でスマホを叩いてシャンシャンしている男がいた。


 寒さに震えながら、外に出てコーヒーを淹れるためにお湯を沸かす。哀れにも外に出されていた飲みかけのビールや食べかけの卵の燻製など、全てのものは固く凍りつく山の朝だ。マイナス7度とかだったらしい。「そういえば」と思って空を見上げれば、やはり尋常ではなく星が綺麗に見えるのだった。「あれが北斗七星で、あれがカシオペアで……」と1人でやってはいたものの、寒いものは寒い。朝の5時半ではあるが、コーヒーにウィスキーを入れたのだった。
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 誰も起きてこないので、たった1人、自分のためだけに焚き火をした。これはいい。もう理屈とかではない。いいものはいい、それだけだ。焚き火を眺め、お気に入りのホーロー(風)のマグカップでウィスキー入りのコーヒーを飲みながら1人でぼんやりする時間。これはもう本当に最高だった。基本的人権として改憲案に明記されるべきだろう。2抱えも買った薪が残り2本に減っていて何事かと思ったが。
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 普段は「マシュマロほどつまらねえ食いもんはねぇぜ」と粋がっている僕でさえ、焚き火を前にしたら優しい気持ちでマシュマロを炙ってしまう。外はカリッと、そして中はトロっとしていて大変に美味い。ひたすらに甘くはあるが、ウィスキー入りのコーヒーもあるのだから。
 段々と男どもが起きてきたので、人間らしい食べ物も作った。千駄木腰塚のコンビーフ入り目玉焼き。若干焦げたけど、「外ごはんは3倍美味しい」と『ゆるキャン△』でも言っていたので大丈夫。一晩寝かせた火鍋はさらに様々な物がぶち込まれ、もはや完全に闇鍋になっていた。
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 一晩お世話になった焚き火の跡は、そこだけ完全に雪が溶けて地面が見えていた。長い時間、同じ場所で火を焚いた跡が遺跡になるのも納得である。気づけば服も髪も、全てに焚き火の匂いが染み付いていた。
 手際の悪い男たちにチェックアウト時間を1時間早く伝えて片付けを急かし、山を降りて温泉に使って帰ったところは再びのうやくんのブログでもご参照いただければ幸いである。

教訓、あるいは気づき

 とまあ、憧れだった焚き火とキャンプをした訳だが、幾つかの教訓めいたものを得ることができた。今後の焚き火にはこれをぜひ活かしていきたいので、列挙しておく。
 ・焚き火はいい
 ・焚き付けにはとにかく段ボールを燃やせ
 ・キャンプでは持っていって損する物はない
 ・焚き火はいい
 ・焚き火は人を優しくする
 ・焚き火はいい
 ・火鍋は闇鍋になる
 ・インスタントラーメンを買え
 ・焚き火は、いい
 ・焚き火は、本当に、いい
 また焚き火をするのであれば、万難を排してぜひとも行きたい。できればもう少し寒くないと申し分ないが、でも寒かろうが焚き火はいい。本当に焚き火はいいのだ。

富士そばで孤独を味わえ

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 富士そばへの愛を、語らなければならない。この間の記事で、高らかに宣言しちゃった手前もあるし。
 僕はしょっちょう、富士そばで飯を食う。少なく見積もっても、平均で週2回は行く。週に5回富士そばだったこともある。理由としては大学の近くとか、バイト先の近くとか、とにかく僕の動線上に店が多いのが1つ。パッと食ってサッと出れる、ファストフードであるのも1つだ。でもそれだけだったら他に候補はいくらでもある。マクドナルドでも、吉野家でも、日高屋でもいい。
 ではなぜ富士そばなのか、と考えてみれば、結局のところ僕は富士そばが好きなのだと思う。「愛している」という言葉は、何なのかよくわからないので、実は好きではない言葉だ。でも、今回はその曖昧さを込めて、あえて使うことにしよう。
 僕は、富士そばを、愛している。

 「富士そば」というものが何かわからない方に説明をすると、都内を中心に首都圏に展開するそば・うどんのチェーン店である。株式会社ダイタングループが運営し、正式には「名代富士そば」という。まどろっこしいし、普段使う名称でもないので、この記事中では「富士そば」で統一させてもらう。立ち食いそば屋だと思われることがあるが、実は殆どの店舗が椅子に座るタイプだというのは、以前ここで書いた。

 先に言ってしまうと、僕が富士そばを好きである理由は、食わせてくれるそばの味ではない。断言してもいい。富士そばのそばは、別に美味くない。

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 美味いそばを食べたければ、ゆで太郎に行けばいい。『挽きたて』『打ちたて』『茹でたて』にこだわるだけあって、そばの味は申し分ない。かき揚げそばを頼むと、かき揚げが別の皿に乗って出てきたりする。ネギも別皿。丼に浮かぶのはなんと三葉である。「富士そば小諸そばなんかと一緒にしないでもらいたい!!座ってそばを召し上がってもらうからには、それなりの盛りつけというものがあるだろう!!!恥を知りたまえ!!!!!」的な、もはや気高さすら感じさせてくれる盛り付けである。410円なんだけど。
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 小諸そばに行けば、かけそばにだって細やかな気づかいがある。冬になれば柚子が乗る。ネギも入れ放題だし。テーブルなりカウンターなりの上には、普通の七味の他に「ゆず七味」なんて物も備えてあって、これまたなんとも気が利いている。
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 そして小諸そばと言えば、小梅漬けの食べ放題である。これは強い。
 ちなみにそばとうどんで、汁がちがう。そばは関東風の真っ黒い汁、うどんは関西風の黄金色の汁だ。「そばをうどんの汁で!」なんていう注文にも応えてくれる。もはや小さなテーマパークである。イッツァスモールワールド。かけそば1杯260円なのに。小諸そばというのは、かけそばワンダーランドなわけですね。

 それに比べて富士そばのそばは、特徴に薄い。言ってしまえば、ボヤッとした味をしていると思う。そばを食うより、うどんを食った方が美味いと思いますからね。肉富士をうどんで頼め。
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 つゆや天ぷらの味も、店舗によってばらつきが大きいし。もっと安くそばを食わせる店はいくらでもあるので、取り立てて安いということもない。

 ではなぜ、僕はこれほどまでに富士そばに通い、「愛している」とまで言い切るのか。
 それはもう単純に、富士そばの雰囲気が最高なのである。

 昼時の富士そばは、ひたすらにスパルタンだ。
 背広姿の男たちが、黙々とそばやうどん、カレーライスやカツ丼を食べている。そこに客同士の会話は、ない。
 「暖かみ」「楽しい食事」「団欒」「和気藹々」などという言葉が、これほどまでに似つかわしくない外食空間は類を見ないだろう。この空間で発する必要のある言葉といえば、食券を出しながら店員に宣言する「そばで」「うどんで」のどちらかのみ。食い終わった食器を返し、返却口の店員に「ごっそさん」と言うあたりまでは認められるだろう。結果、店内に響くのは店員の声と、流れ続けるBGMの演歌だけだ。
 客の平均滞在時間は10分もないだろう。せわしない昼休み、人は、昼時の富士そばで1人になれる。富士そばで噛み締め、味わうのはそばでもうどんでもない。カレーライスでもカツ丼でもない。高貴にして純粋な孤独なのだ。
 なんという、スパルタンな空間か。だから僕は、昼時の富士そばに行くときは、最大限に敬意を払う。背広を着て、ネクタイを締めて、紅生姜天そばという名の孤独を手繰るのだ。
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 一方で、夜の富士そばというのも、これまた大変に愛すべき存在である。特に、終電が出たあとの富士そばがおすすめだ。
 北千住駅の終電は、25:02発の常磐線快速松戸行きだ。新宿や中央線沿線なんかで呑んだくれると、僕はこの電車にお世話になることがある。25時過ぎに北千住駅西口に降り立つと、酔いはそろそろ醒め始め、小腹が空いたりする。すると、目の前に明々と富士そばの明かりが灯っているのだ。そう、富士そばは24時間営業である。
 店内の音は、昼時と対して変わりはない。店員の声と、BGMの演歌が流れ続けている。客同士の会話も相変わらずない。相変わらず、富士そばは人を孤独にする。
 この孤独が、どことなく暖かく、そして優しいものに思えてくる時がある。富士そばの存在が、どうしようもなくありがたいのだ。飲んで騒いで、階段を登れば、今日も丼に、油が浮いていたりする。そして僕は深夜25時、紅生姜天そばを手繰るのだ。
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 逆に、この孤独がとてつもない寂寥さを際立てる時もある。1人というのは寂しい、そんな当たり前のことを富士そばが思い出させてくれる。客は1人、また1人と丼を返却口に返してく。ある者は徒歩で千住龍田町に、ある者は自転車で町屋6丁目に、そしてある者はタクシーで谷在家へ、それぞれの家路につく。紅生姜天そばを食べ終えた僕も、コートの襟を立てて孤独と共に帰宅の途につくのだ。
 これはつまり、エドワード・ホッパーの『ナイトホークス』の世界なのだ。
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 1940年台のニューヨーク、グリニッジ・アヴェニューのダイナーに行きたいと思ったら、終電が終わったあとの富士そばに行って、紅生姜天そばを手繰りなさい。410円で、あなたもナイトホークスになれるのだ。

紅生姜天そば/うどん(410円)

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 とまあここまで書いてきて、富士そばに馴染みのない方の脳内には同じ疑問が湧いていることと思う。
 「紅生姜天そばって、なに……?」と。
 まあ、読んで字のごとくである。紅生姜が天ぷらになって、そばの上に乗っている。それ以上でも、以下でもない。紅生姜天そばとは、紅生姜天そばに他ならない。
 生姜の細切れを梅酢に漬けて、それを玉ねぎの切れ端なんかと一緒にかき揚げにする。そしてそばに乗せる。冷静に考えれば、正気の沙汰ではない。関西では一般的だと言う話もあるが、じゃあ関西というところが正気の沙汰ではないのだろう。味の良し悪しは、個々人の好き嫌いによるだろうから「食ってくれ」としか言えない。正直、僕は富士そばにはもっと美味い食べ物もあると思う。肉富士をうどんで頼むとか。
 でも、僕は好きだ。好きなんだからもうどうしようもない。富士そばの生んだ最高傑作だと思う。天ぷらの揚がりが甘い店舗で、口の中に「ヌタッ」「ネチャッ」という感触が広がったときなどたまらなく愛らしくなる。まあそんなもん、食べ物としては美味くはないんだけど。
 大多数の店舗では、ちゃんと揚がっているので、安心して食べてください。もしどうしても「ヌタッ」「ネチャッ」が味わいたい人には、個人的にお教えします。
www.amazon.co.jp

カレーライス(440円)

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 富士そばという店は、極めて大衆的なそば屋の文脈上にある。そばがあり、うどんがあり、ラーメンがあり、カツ丼があり、そして当然カレーライスがある訳だ。
 カレーライスは、「カレーライスである」というそれ時点で、すでに嬉しい食べ物だ。富士そばのカレーライスは、スキー場のロッジとかで食べたら1200円くらいしそうな味がする。学食で食べたら、254円くらいの味でもある。つまるところ、極めて普通ということなのだが、味の良し悪し以前に嬉しさがあるんだから、もうそれでいいじゃないですか。優勝。優勝です。
 ちなみに富士そばは、多くの店舗が交通系電子マネーに対応している。電車賃を飯につぎ込めるのだ。だから僕はSuicaで支払いをして、440円のカレーを食べようとスプーンを取る度に、なけなしの電車賃だった10銭でライスカレーを食べる内田百閒を思い出してしまうのだ。

かつ丼(490円)

 富士そばのカツ丼については言及してる人がいっぱいいるだろうから、そっちを読むと良いよ。写真もなかったしね。
 正直に言えば、富士そばのカツ丼は僕の理想とするカツ丼ではない。僕の理想とするカツ丼については、またどっかで語ったりするかもしれない。気長に待っていただければ幸い。
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www.amazon.co.jp

ブロッコリーさんとぼく

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 ブロッコリーと、暮らしている。
 「育てている」というほどに、丹精込めてはいない。ベランダに置いた植木鉢に、ブロッコリーの苗を植えた。毎日水をやった。そうしたらブロッコリーが勝手に育った。まあそんな塩梅である。
 一緒に暮らしてはいるが、間違いなく血縁関係はない。籍も入れていないから、有り体に言えば同棲ということになる。
 僕は、ブロッコリーと同棲している訳だ。

 ここのところ、毎年のように夏には朝顔を植えている。その時も思ったが、毎朝植物が育っていく様を見るのはなんとなく気分がいい。写真の1枚でも撮って、Twitterに上げてもみようか、という気にもなる。それで「いいね!」でもしてもらえれば、僕の自己顕示欲も満たされる。
 かように植物と一緒に暮らすのは、とりあえず悪いことはない。食べれるものなら申し分ない。バジルなんかは、ほったらかしておけばワシャワシャ繁るので、必要なときにその都度ブチブチと千切って使えばいい。「ジェノベーゼが高い」とお嘆きのあなたには、特にオススメしたいものだ。


 とはいえ、ブロッコリーとの同棲生活には心配事がなかったわけでもない。収入も不安定だし……
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 我々家族はどこからか「10月には食べられる」という情報を得て、それを信じていた。毎朝毎朝、ブロッコリーが育っていくのを楽しみに確認して、それぞれの人生を過ごしていた。
 ところがいつになっても一向に、「ブロッコリーらしさ」を持った、食べられそうなところが出てこないのだ。むやみやたらと図体ばかりデカい、食べられるんだか食べられないんだかさっぱりわからん葉っぱばかりがモサモサと生えてくる。いつしか、家族の中でブロッコリーの育成状況に関する会話はなくなった。暗黙のうちに、タブー視すらされるようになった。
 同棲相手のブロッコリーさんが厄介者扱いされていく様を、僕は黙って耐えるしかなかった。


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 そんなブロッコリーたち(そう、実は2鉢ある)だったが、最近ようやく「ブロッコリーらしく」なってきた。大変よろこばしくある。
 「そろそろ収穫かな」などと、家族の会話にもブロッコリーが戻ってきた。素晴らしいかな、ブロッコリーのある生活。みんなもベランダでブロッコリーを育てて一喜一憂しつつ、柔らかな感情を持って生きていけばいいと思うよ。スモアを作ってココアを入れて、暖炉の前の揺り椅子で、読みさしのサマセット・モームを開いて……いやまあ家にはガスファンヒータくらいしかないですけど。

 ただ、困ったことはないでもない。
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 鳥の糞害である。
 最近めっきり寒くなり、木々の葉っぱもすっかり落ちた。そんな中で我が家のベランダの片隅で、すくすくと勝手に育ちつつあるブロッコリーたちは、貴重な緑として鳥類に目をつけられたらしい。
 散々葉っぱばかりがモサモサ繁っていた時に、悔しいので何とかならないものかと思い、利用方法を調べたことがある。するとどうも、ブロッコリーの葉というものは食用になるらしい。人間様が食べるくらいなら、当然鳥だって食べるだろう。
 そんなわけでお鳥様は、我が家のベランダでゆっくりと新鮮野菜を味わい、ご丁寧にウ◯コまで垂れてから飛び立って行かれるのである。これではまるで、鳥が我が家のベランダで便所飯をしているようで大変に腹立たしい。僕としては責任鳥に文書をもって正式に抗議する構えであるが、母親による収穫のほうが早いかもしれない。

 同棲相手を「食べる」日が、刻一刻と近づいている。

立ち上がってそばを食え

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 立ち食いそばが好きだ。
 世間一般の人様に比べても、だいぶ立ち食いそばが好きだという自信だってある。だからなんだ、というのは全くもってその通り。
 しかし「何が好きなの」「どうして好きなの」と聞かれると途端に困る。立ち食いそばという食物が好きなのか、立ち食いそばを手繰るという行為が好きなのか。はたまたシチュエーションなのか、それとも立ち食いそばという文化が好きなのか。自分では判然としないけれどもとにかく、立ち食いそばが好きなのだ。
 
 立ち食いそばの魅力そのものについては、すでに先人が多くを伝えている。押井守の作品を見てもらってもいいし、柳家喬太郎の「時そば」のマクラを聞いてもらってもいい。
 だから僕は、極めて個人的な感情に基づいて立ち食いそばを語ることにする。止めるな。ある程度本気だ。

 なぜこんなに立ち食いそばが好きなのかと考えて、最近ふと思い当たった節が一つある。
 子供の頃の僕にとって、立ち食いそばというのは紛れもなく「大人の食い物」であり、立ち食いそば屋というのは「大人の空間」だった。強い憧れと、素朴な畏怖があった気がする。

 立ち食いそばというのは言うまでもなく、立って食うそばな訳である。店内のカウンターは大人の背丈に合わせて作ってある。子供はそもそも、立ち食いそばから物理的に排除されているのだ。
 小学生の頃、塾が終わると20時21時台の電車に乗って帰っていた。弁当を持たされる塾ではなかったので、腹を空かせて帰る。そんな中で駅のホームの立ち食いそば屋から立ち込めるダシの匂いが、どんなに蠱惑的だっただろうか。そばだのうどんだのを黙々と手繰る、背広姿の男たちの背中がどれだけ羨ましかったか。

 今から思えば食えばよかったのだろうとも思うけれど、当時の僕にとって1人で外食をするなどというのは思いもよらないことだった。ましてや立ち食いそばなんて、子供が入っていいとも思えなかった。ある程度まで、僕は妙にお行儀がよくシャイな子供だったのですね。

 こういう子供時代を過ごしたから、自由に使える金を持ち、1人で外で飯を食う機会が増えた今、つい立ち食いそば屋に入ってしまうのだと思う。
 世のお父様お母様方が、お子様をやたらと立ち食いそばを食いたがる人間にだけは育てたくないとお思いでしたら、さっさと子供に食わせて「こんなもんか」と思わせるべきだと思いますね。

 ところでじゃあ、僕にとって初めての立ち食いそばがいつどんな感じだったかと考えると、まるで覚えがない。中学に上がると、もう普通に駅のホームでそばを手繰っていた気がする。鉄道研究「部」などという冗談のような部活に入り、電車に乗ってあっちこっちと動き回るようになって、気が大きくなったのかもしれない。

我孫子駅ホーム上 弥生軒唐揚げそば

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 そんな中高時代と密接につながる立ち食いそばといえば、常磐線我孫子駅唐揚げそばである。別に中学高校が我孫子に近かったとか、そんなことは全く無いのだけれど、それでも我々はやたらと我孫子に行っていた。鉄道研究部とはそういうところだったのである。
 普通、唐揚げをそばに入れるという発想をするだろうか。我孫子ではする。普通ではない土地なのだ。河童音頭とか踊るしな。しかもこの唐揚げ、写真のとおり半端でなく大きい。ケンタッキーフライドチキンが裸足で逃げ出すレベルの大きさである。そして文句なしに、この唐揚げは美味いのである。
 そばについては味をどうこういう種類のものではない。僕はすでに、立ち食いそばの味などでガタガタ言うような男ではないのだ。

荒川区東日暮里のソーセージ天そば

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 立ち食いそばは、何も駅そばだけではない。路面店だってあるのだ。あるんだよ。
 ソーセージを天ぷらにしてそばに乗せるというのは、座って食うそば屋の文脈では正気の沙汰とも思えないが、立ち食いそば屋ではいたって常識的だ。むしろメニューの中では花形ですらある。
 このソーセージ天は実に「正しいソーセージ天」で、魚肉ソーセージの天ぷらである。しかも魚肉ソーセージを「こう」切っているのである。柳家喬太郎の「時そば」でおなじみ2代目のバルタン星人のごとく、ソーセージを長手方向に切っている訳だ。ネギも厚めに切られていて、実に雑な味わいがあって嬉しいことこの上ない。
 店内も狭く、そして乱雑で、ネギやニンジンの段ボールの上でソーセージ天そばを手繰ることができる。これだけの味わいがあって290円なのだから、もう何も言うことなど無い。最高だ。
 僕としてはめちゃくちゃに褒めているつもりだけれど、世間一般の方からしたらどうだかわからないので店名は明かさない。繊維街の入り口のところにありますよ。



 とまあ、ここまで立ち食いそばについて好き勝手語っておいて何なのだが、実は最初の写真は立ち食いそばではない。気づいたあなたは僕と同族なので、誇りを持って生きていい。一人じゃないのだ。
 最初の写真は富士そばでコロッケそばに生卵を入れたものだ。富士そばは今やほぼ全店舗で椅子を備えているので、立ち食いそばではない。
 Twitterで度々叫んでいるが、僕は富士そばも好きだ。いや、愛している。なので、富士そばについては別の機会に好き勝手語る。

 そう、この記事は続く。富士そばへの愛をありったけ叫び、駅のホームで食べる「西新井ラーメン」編、そして東京風の真っ黒い汁に沈んだウドン編などなどが予定されている。生きる楽しみにしていただければ幸いだ。 

ブログを作ったという話

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ブログを作った。
いや、正確に言えば作り直した、もしくは作り替えた、だろうか。
理由としては一言で「気分」とも言ってしまえるのだけれど、突き詰めてみれば無いわけでもない。

まず、前のブログでは基本的に「ですます」の文章を書いていた。僕はTwitterでは基本的に「ですます」調の文章を書いている。これは無意味に不特定多数に呼びかけたり語りかけたりしている、というだけである。それに比べて長い文章を書く場であるブログでも 「ですます」なのが、まあ言ってしまえば面倒になったのだ。
とは言え、じゃあ前のブログのままでいきなり文章を「である」調にするというのも何となく格好悪く、気恥ずかしくもあり、この度のブログ新設と相成ったわけである。
これからの文章は「である」なのでよろしく。

第二に、前のブログははてなダイアリーだった、ということだ。
もはや古色蒼然たるサービスな気もするし、サポートが終わってもおかしくない気もする。実際にはそうなのかよくわからないけど。

などと理由を並べ立ててみたところでこんなもので、つまるところ、大した理由なんてない。結局のところ「気分」という言葉が一番収まりの良い気がするので、そういうことにしておいて下さい。

そして、なぜか方々から「ブログを更新しろ」という圧力もあった。僕には理解しがたいのだけれど、どうも僕のブログを生きる楽しみにしている奇特な方々がいるらしい。
きっと僕のブログが更新されると喜びのあまり舞い上がり、どこに行くにもプリントアウトした記事を持ち歩き、学校では変な子扱いされてもへこたれず、寝る前にベッドで幾度となく読み返しては「今日は更新されなかったわね……明日はされるかしら?あなたはどう思う?なーんて、あなたに聞いてもわかるわけないわよね!」などと枕元に置かれた熊のぬいぐるみ(4歳の誕生日にアラバマのおばあちゃんからもらったもので、名前はアダムという)に話しかけてから寝るのを日課にしていたりするのだと思う。国立で。

とにかく(また)ブログを作った。好きなことを好きなだけ、それはもう好き勝手に書いていくつもりだ。
またどうせ飽きて放置したりする気もするけれど、そんなもんだと思っていただければ幸いである。