濹堤通信社綺談

江都の外れ、隅田川のほとりから。平易かつ簡明、写真入りにて時たま駄文を発行いたします。

煙草を吸わない3ヶ月

「たばこやーめた」して3ヶ月が経った。
mikoyann.hatenablog.com
前回の禁煙報告が1週間の時だったが、そこから無事に禁煙が続いていることになる。なんとまあ。褒めなさいよ。

ただ、白状するとこの間1本も煙草を吸わなかったのかというと嘘になる。実はあの記事を書いて、その後の2週間で3本の煙草を吸っている。
こういうことを言うと「禁煙に失敗しているじゃないか!!」となるかもしれないが、結果的に煙草を吸わなくなっているのは確かなので大目に見ていただけると助かる。

なぜ吸ってしまったかというと、それは単純に「羨ましくなった」から。
昔の映画を見ていて、登場人物がブカブカ煙草を吹かし散らかしている。
Twitterを見たら、サンライズ瀬戸喫煙室で煙草を吸っている先輩がいる。
東北新幹線に乗っていたら、八戸駅ホームの喫煙所にスモーカーが吸い込まれていくのが見える。

そういうのを見ていると、何故か無性に羨ましく、自分が煙草をやめてしまったことが惜しくて惜しくてたまらない。
前に書いた通り、「いつでも吸ってやらぁ!!!」という気概で禁煙をしたので、煙草を別に捨てていない。
じゃあ、どうする。いっそ吸うか。ええい、吸ってやれ。
禁煙のきっかけがヤケだから、禁煙を破るのもヤケだ。
煙草に火を吸い付ける瞬間、「イケナイこと」をしているような気になる。そうだ、これは初めて煙草を吸ったときの感覚だ。
満を持して吸うピースはさぞや美味く、瞬く間に脳へとニコチンが駆け巡り、禁煙の誓いも虚しく哀れ僕はまた喫煙者に……

……と、思っていたのだが実際はそうではなかった。
煙草が美味くない。脳がニコチンを欲しなくなっているのか、まあ何も感じないのだ。
あれだけ期待して煙草を吸ったのに、特に何も感じない。それどころか、煙いばかりでまるでいいものではない。
そういえば初めて煙草を吸ったときもこんなふうだったなあ……などと思っているうちにどうでもよくなり、結局2口でやめてしまう。というのを3度やったわけだ。

今のところ最後に煙草を吸ったのは「たばこやーめた」から2週間ちょっと経った、3月の後半のこと。
東北新幹線というのは、乗っていると煙草が吸えない。だから、世のスモーカーたちは東北新幹線から降りると、即座にホームの喫煙所に吸い込まれていく。
新青森までの車窓、駅ごとに見るそんな喫煙者たちがどうにも羨ましい。その日のうちにコンビニで煙草とライターを買ってまで吸って、2口でやめた。青森湾が目の前に広がる、ミニストップの喫煙所だった。

その日は浅虫温泉の旅館に泊った。予約をした次点ではまだ喫煙者だった僕は「お!喫煙可の部屋あるじゃーん」と喜びさえ覚えて予約した部屋だ。
この部屋が、すっっっさまじく煙草臭かったのだ。
煙草を吸う気もないのに、煙草臭い部屋に一晩寝泊まりしたら、なんだか煙草を吸う気が本当に失せてしまった。
東京に帰ってきて、捨てずに置いていた煙草も処分する気になった。部屋に喫煙者の大群が押し寄せて、街中の喫煙所さながらに横でブカブカ吸われても吸っていない。

昔の煙草のキャッチコピーに、「生活の句読点」というのがあった。「いこい」だったか、「パール」だったか。
これはすごくいいコピーというか、言い得て妙だ。煙草を急にやめると、生活のリズムがどうも単調になってしまう。
何か気分転換になるものを、ということで古典的ながらガムに落ち着いた。食後に、仕事の合間に、「ちょっと一息」つけたい時にガムを噛んでいる。
聞けば、ガムの市場はタブレットやグミに圧されてどんどん縮小しているのだそうだ。煙草といい、ガムといい、過去のものになりつつある嗜好品がどうにも僕にはちょうどいいようだ。

「煙草を吸ってイライラしているのなら、吸わずにイライラしたほうが得では?」という目論見どおりに煙草をやめて、ガムを噛みながらくさくさしていると、なんだか高校生の頃に戻ったような気がしてくる。
煙草も吸わずにくよくよ悩んでいることに、わけもなく青い恥ずかしさを感じながら生きているこの頃なのだ。

エスビー赤缶で昭和の黄色いカレーを作る。感動する。

以前、こんな記事を書いた。
mikoyann.hatenablog.com

本記事は読むが、以前の記事を読む気がないという方にざっくりと説明申し上げると、僕は「カレーをスパイスから作る男」である。
ゆえに、結婚できない。

そんな、「令和の絶対につきあってはいけない男3C」の一つたる「カレーをスパイスから作る男」の僕であっても、常日頃から玉ねぎ炒めてスパイスカレーを作るほどの有閑貴族なわけではない。
手軽に美味しいカレーを作れるのだから、市販の即席カレールーを使わないという手はない。中でも、ジャワカレーの爽やかな辛さが好きなのでよく使っている。
トマト缶を入れたり、やれチリパウダーだ、ガラムマサラだ、と追いスパイスをするせいで結果的に別物になりはするが、まあそれはそれ。

今回、ふと思い立って今までの自分が作らなかったカレーを、あえて作ってみた。

前日の夜から手羽元を仕込み、半日かけて玉ねぎを炒める手間を惜しまぬスパイスカレーでもない。
ハウスジャワカレーで簡単ながらも爽やかに辛い、夏野菜たっぷりのビーフカレーでもない。
3分間、じっと我慢の子であったボンカレーでもない。

炒めた小麦粉とエスビーの赤缶カレー粉で作ったルーに、玉ねぎと豚肉だけ。
そう、昭和の香りがムンムンする、懐かしの黄色いカレーである。

そしたらね、深くふかーく、感動しちゃったのよ。

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ヤケクソからタバコを吸わない一週間


実は、この一週間、煙草を吸っていない。なんと1本も。
煙草を吸うようになってから、よほど具合が悪くない限り煙草を切らしたという記憶がない僕が。
ここのところは1日にきっかり1箱吸うようになっており、ヘビースモーカー当落線上というところで踏みとどまっていたこの僕が。

いやはや、なんともまあ。自分が一番驚いている。まあ、誰にも言ってないので当然なんだけど。

入院していたとか、警察によって身柄を勾留されていたとか、はたまた嫌煙家のヤンデレ女子によって監禁されていたとか、そういう「吸いたくても吸えない」環境だったわけではない。
単純に、自分の意志で煙草を吸っていないのだ。
喫煙者にだけ分かってもらえたらそれでいい。ともかく、これは大変なことだ。

ためしに「禁煙」と検索してみれば、このご時世だ。ありとあらゆる自治体やら医療機関やら健保組合やらが禁煙の効能と方法について説いてくれる。
あれがすごく気持ち悪い。あれを読んで「ああ、煙草を止めよう」なんて染み入ってしまう人間はそういないだろう。
だいたい、人によってどうするかは全く違うはずだ。なので、僕が煙草を吸わないために何をしたかは簡単に。

・煙草を吸う際に定位置になっていたソファーに物を置いて座れなくする(組んでないプラモデルが役に立つ)
・仕事用のカバンから喫煙具一切を出す
禁煙パイポとミントタブレット各種を拠り所にする

これだけだ。逆にしていないことはといえば

・禁煙治療は受けない
・ニコチンパッチやニコチンガムも使わない
・自宅の灰皿、ライターはおろか煙草も捨てない
・煙草を吸わないことを誰にも言わない

世の中の禁煙の方法論が指し示すアドバイスをことごとく無視してここまで来た。
ここにきて誰かに褒めて欲しくなったので、1週間の苦闘を明らかにしようと思う。

唐突な初日

昔から、季節の変わり目というやつに僕はめっぽう弱い。
この冬から春への移ろいは中々に辛くて、気圧の変化やら寒暖差で自律神経がピキピキしているのを常に感じていた。
首から腰にかけて、背骨に沿って筋肉がかたーく強張って、ちょっとやそっとのストレッチではもうどうしようもなくなるのだ。
そうなると肩こりだとか、胃もたれだとか、逆流性食道炎みたいなのだとかが一気にやってくる。
おまけに仕事の環境が変わってちょうど1月が経ち、言ってみれば五月病真っ盛りみたいなメンタルにもなっていた。

中山の11レース、弥生賞馬連で狙ったワンダイレクトとトップナイフは2-3着。
ワイドなら……なんてことを考えてみて、都合のいい自分に対して腹を立てる。
喫煙者がイライラしたら、当然煙草に手が伸びる。ニコチンを補給して、イライラを抑える。
ところが、だ。今日ばかりは煙草は忘れさせてくれなかった。自律神経の不調も、競馬で負けたイライラも、ニコチン様の及ばないところまで来ていたのだ。

ところで、禁煙を考えたことのない喫煙者というのはかなり少数だろう。みんな「やめなきゃな。やめたいなぁ」と思いながらも吸っている。
わかっていても禁煙に踏み切れないのは、ニコチン切れのイライラを知っているからだ。
そして、そうなって吸う煙草の美味さも。より正確に言えば、そうなってから体内をニコチンが駆け巡る喜びも。

「吸っていてもこれだけイライラしているのであったら、煙草を吸わずにイライラしていた方が得なのでは?」

ニコチン切れのイライラに耐える自信が、なんだか急に変な方向から湧いてきた。
うんじゃあ、もういっそ煙草辞めるか。
いや、辞めた。
タバコ、やーめた。
やめたー。


メンタルが弱ると、何かに対する執着を捨てたがるところが僕にはある。それまでやっていたゲームを急にやめたり、心底腹を立てた人間と連絡を絶ったり。意味のないことは分かっていても、意地を張りたくてたまらなくなってしまう。
じゃあ、今回は喫煙という習慣を辞めてしまおうと思ったのだ。
なにせ、辞めたからといって悪いことは何もない。それに、意地の張り甲斐には事欠かないだろう。

煙草を吸わなければ、そのぶんのお金が浮くことになる。ふと、誕生日までの日数を測ってみるとだいたい50日だった。今吸っているピースのアロマロイヤルが1箱640円。それが50日となると……なんと3万2000円。

ニンテンドーSwitchが買えるんだなぁ……」
苦痛の先の皮算用であっても、50日煙草を吸わない「だけ」でSwitch、というのは気持ちとしてデカい。いいねえ。やってやろうじゃないの。
かくして僕は煙草を吸わなくなったのである。

優雅に2日目

初日は意志を固めたばかりで何とかなったが、翌日の朝こそが一番の鬼門だ。起き抜けに、コーヒーのためのお湯を沸かしながら吸う煙草の旨さを諦めきれるだろうか、と。
結論から言えば、意外なくらい何とかなった。強靭な意志というより、まだニコチンからの離脱症状が始まっていなかっただけなのだろうけど。

気持ちの面での吸いたさは、今や古典的とも言える禁煙パイポで何とかなった。
口に咥えしばし瞑想、吸い込んだ架空の煙をもったいぶって吐く。『刑務所の中』で、拘置所で丸めた新聞紙に消しゴムのライターで火をつけて妄想煙草を吸っていたでしょう。
あの要領で、まさに煙草を吸っていたときそのままの呼吸を再現してやると、薄らぼんやりではあるが脳が騙されてくれるというわけだ。

煙草を辞めて1日目に気づいた変化として、意外なくらい時間に余裕ができる。これは自分でも本当に驚いた。
煙草を吸っている時間だけではなく、出勤前退勤後に喫煙所に寄るための時間とか、少し遠回りしたコンビニに煙草を買いに行く手間とか、そういう時間がそっくりそのまま空くのだから。
ぼくはデスクで煙草を吸わないから、離席してタバコを吸いに行き、トイレだなんだかんだとウダウダしている時間もなくなる。ああ、「タバコ休憩」ってそりゃあ吸わない人からしたらムカつくわけですね……
喫煙者の平均寿命が短いという統計データがあったとするならば、多分この時間の消費が原因なんじゃないか。知らんけど。

吸いたい3日目

朝の吸いたさは禁煙パイポで、仕事前はミンティアでごまかす。喉をハッカでスハスハさせることを、喫煙の代替として脳に刷り込んでいこうという狙いだ。
この日は仕事中のストレスがものすごかったが、退勤後は仁王像のような表情で駅前の喫煙所を横目で睨みながら何とかやり過ごす。

帰ってきてビールを飲んでいると、唐突に来た。「煙草が吸いてえ……」という欲求が。
風呂に入っても「この後煙草が吸いてえ……1本ぐらい吸ってもいいんじゃないか……」と。
ああ、お手本通りの離脱症状である。「1本だけオバケ」とか、なんかそんな感じのつまらない名前がついていた。
しかしながら、禁煙パイポの吸い口を噛み締め、ミンティアやらフリスクやらフィッシャーマンズフレンドでの喉スハスハで乗り切る。乗り切れてしまう。
「3日目を乗り切れば大丈夫」という根拠のない願掛けをしていたので、これを抑え込んだら急激に気持ちが楽になったのだった。

蒸される4日目

仕事が休みだったので、スーパー銭湯に行く。身体メンテナンスの日である。
朝は習慣として禁煙パイポ喉スハスハをしてみたものの、煙草への欲求が薄れたような感じがする。ニコチンが体から抜けてきているのかもしれない。

お湯につかり、スチームサウナで蒸されていると強張っていた背骨がほぐれたような、しかしそれでいて一本筋が通ったような、不思議な感覚を味わう。なんだろう、要は背筋が「シャンと」したのだ。
自律神経が背骨と関係しているというのは本当なんですね。以来、隙あらば背骨を伸ばし散らかしている。


ホカホカになったら、酒を飲む。
だんだん酔っ払ってくると、ジンワリと「たばこすいたい」がやってくる。
ははあ。考えてみれば、煙草を吸わずに酒を飲むことなんてなかった。飲酒と喫煙、これが脳内で強固に結びついているのだ。
ということは、飲酒の頻度も減らしていけばいいわけだ。なんだかどんどん健康になってしまう。

気づけば5日目

朝起きての禁煙パイポ喉スハスハをしなかった。特にしたいとも思わなかったので、どうやらニコチンの離脱症状は超えたらしい。

外を歩いていると、煙草を吸っている匂いというのはすぐにわかる。
せっかく煙草をやめたのだからと、副流煙を吸わないように息を止めて通り過ぎる。数日前まで1日1箱吸っていた人間がこれでいいのだろうか。

仕事中、ストレスに襲われた際に思うことが「喉スハスハさせたい……」になっていることに気づき、笑ってしまう。
喫煙の代替行為として脳みそに定着してきたのかもしれない。
とはいえ、まだ煙草への未練は断ち切れていない。
ドラマを見ていて煙草をズパズパ吸われると「ああ、いいなぁ」と思ってしまう。煙草のないことが、極めて味気なく思えてくる。
でもこんな気持ちになれるのも喫煙のおかげと、この悔しさを楽しむことにする。ああでも、いいなあ。

なにやら6日目

煙草を吸わなくなって、意外なことに口内炎ができる。喫煙によるビタミンの破壊が起きなくなるのに不思議なのだけれど、そういうものらしい。
あと、痰が出るようになる。これは喫煙によって痰を出す機能が衰えていたのが、回復してくるせいらしい。

気持ちの上でのこと以外でしんどいことは眠気だ。
常に眠いとか、ボンヤリしているとかではなく、日中に2~3回、「ウッッッ!!!眠ッッッッッ」という発作のような眠気が来る。
この眠気、寝れるタイミングで来ると嬉しい。これで寝てしまうと、短時間でもお脳がシャッキリする魔法のような睡眠になるのだ。

飲酒が「たばこすいたい」トリガーになっていることがわかったので、この際ビールもアルコール分が0.5度というやつにしてみた。
はじめの一口目は「これはビールではないなぁ」と思うのだが、次第に意外なくらい気にならなくなってくるので驚いた。2杯目、いや3杯目に出されたら絶対わからないな、というくらいにはビール感があるのだ。
でも、そこまでして飲まなければいけないものだろうかとも思う。だんだんと馬鹿らしくなってしまったので、2本買ったけれど1本でやめてしまった。

正直に言えば煙草を吸いたいという気持ちはまだ残っている。
だが、もう吸わないことはわかっているのでそこまでの苦しみではない。「吸いたいなあ。吸わないけど」くらい。
煙草の味も忘れてしまった。あれだけ吸っていたものを思い出せないのだから、煙草に味なんて最初からなかったのかもしれない。

とうとう7日目

なんと、煙草を吸いたいと思わなくなった。
自分でも「ウソでしょ……」と思うくらいに。6日目までは確かに吸いたい気持ちが残っていたのに。

これを書いている今はすでに8日目に突入しているのだが、やはり吸いたいとは思わない。
ズバッと習慣を断ち切ってしまったことが原因だとは思うが、こうまで素直に煙草を吸わなくなるとは思っていなかったので、嬉しい反面あまりに単純な自分に呆れもする。

なぜこうもすんなり煙草を吸うのを止められたのかと思えば、逃げ場があったことがよかったのだろう。
こんなことを言うと怒られるのかもしれないが、僕は「金輪際、煙草なんて1本も吸わない!!!!!」という気持ちは毛頭ない。
むしろ、「煙草なんていつでも吸ってやらぁ!!!」という、変なやさぐれと一緒に禁煙をしている。
まだ箱にピースは6本残ってる。もったいないなあ、とはずっと思っている。ライターだって捨てていないので、吸おうと思えば家ならいつでも吸える。

でも、吸わない。
いつでも吸えるのなら、別に今じゃなくていい。
とっておきのとっておきまで、煙草を吸うチャンスを残しておこうと思う。

とりあえずは、4月25日の誕生日までそのチャンスが訪れないことを心から祈っている。

この夏、風呂に入ってビールを飲むために作ったものたち

 最近、色々なことをあんまり楽しめていない。楽しいと感じない、という方が正しいのかもしれない。
 仕事は忙しい。夏というのは僕の仕事としては量的な繁忙期であるし(質的な繁忙期はこれから年末にかけてだ)、端的に言ってしまえばそのストレスにやられていたのだろう。

 そんな中で楽しいことはといえば、風呂に入ってビールを飲む。これだ。どんな時であれ、これだけは間違いないのだ。

 風呂に入るというのは、さっと汗を流すとかそんなのではない。
 世の中には湯船につからず、シャワーだけで済ませられる人も今や珍しくないのだと思うが、僕にはそれができない。
 休みの日であれば、最低でも30分。1時間以上だって風呂に入っていることもざらだ。できることなら、可能な限り、じっくりと湯船に身を沈めなければ満足できない。それも、ぬるいお湯ではないのに。

 これからさらにガス代が上がりそうのは、なんとも大きな悩みの種だ。


 そして風呂から上がったならビールを飲む。よく冷えたビールを流し込む。これだ。最高なのだ。
 瞬く間に1本めを空けると、すぐに2本目のプルタブを起こしたくなる。しかし2本目ともなると、素ビールでは少しばかり寂しくなってくる。何かつまめるものがあればもっと魅力的になるな、と思ってしまう。
 そういうわけで、この夏はビール向きのつまみになりそうなものばかり作っていた。
 まだまだ暑い日もあるだろうし、別に暑くなくともビールは美味いのでその一端をここにご開帳しておいたら、もしかしたら誰かの役に立つのかもしれない。

 そういえば、なにやらはてなブログのトップページに載っけていただいたようで恐縮です。
 更新は極めて不定期ではありますが、そこからいらした方、どうぞよろしくお願いします。

老干媽でナムル的なものを作る

www.laoganma-japan.co.jp

 老干媽(ローカンマ)をご存知だろうか。おじさんが描かれたラベルが特徴的な瓶に入った、日本でも少し前に流行ったいわゆる「具入りラー油」というやつだ。
 なんでも中国では国民的調味料とまで言われるらしく、実際中華系の食料品店に行くと様々な種類のものが売られている。
 眺めていると色々ありすぎてよくわからなくなるのだが、僕は豆豉入りのラー油が気に入っている。豆豉というのは大豆を発酵させて作る調味料で、粒のままの味噌のようなやつだ。レトルトの回鍋肉の素とかにちょっぴり入っている、あれだ。コクと旨味にあふれていて、すごくいい。


 スーパーで売っているハウス食品エスビーのシーズニングでナムルを作ってやるときに、この老干媽を大さじ1ほど入れてやる。赤くはなるが見た目ほど辛くはならない。
 風呂に入る前に仕込んでおくと、ホカホカになって出てきて2本目の缶をプシュッといくころにはちょうどいい塩梅になっていてくれるのが何より嬉しい。
 手間もかからないので、この夏は人に会うたびに勧めて回っていた。ビールでなくとも様々なものに合うと思うので、ぜひお試しあれ。

豉油猪肉を食い尽くす

 豉油猪肉、豚肉の醤油煮というところだろうか。図らずもまた中国語の単語から始まってしまうが、特に意味はない。
 これは邱永漢の『食は広州に在り』で読んで知って、簡単でありながらなんとも美味いので度々作るようになってしまったやつだ。

 同著の中では奥さんが中々来日できないというエピソードの中で紹介されるのだが、「調理がなるべく簡単で、保存がきいて、そのうえ、むだが出ない料理」と言われているとおり、実に一人暮らしに向いている。

 肉のハナマサが極めて至近にあるので、思い立ったらいつでもこういう豚バラのブロックを手に入れることができる。

 こいつをどすんどすんとぶつ切りにしたら(今回は塊の段階で一度下茹でをしたが、べつにしなくてもいい)、五香粉をまぶし、八角を入れ(なくてもいい)……

 長ネギを青いところまでぶつ切りにしたのを入れ、水と醤油を1:1で煮る。貧乏性なのでどうしても鍋が寂しく見えてしまうから、大根とゆで卵も入れておく。
 なんと、これだけだ。酒やみりんや黒酢を加えてもいいし、入れなくても別に構わない。僕は入れる。入れた。

 じっくりコトコト煮込んでいくと、部屋中に八角の効いた「中華圏の匂い」としか言えないあの匂いが漂ってくる。
 ちなみにこの時はエアコンもつけずに扇風機から送られてくるぬるい風に吹かれながら瓶のハイネケンを飲んでいた。自宅にいながらにして、まるで東南アジアの中華街にある安宿に「沈没」しているかのような錯覚に襲われたのだった。


 弱火にして風呂に入っていれば、こんな色になっている。またガス代がかかるものを……
 ちなみにいわゆるトロトロの角煮にはならないので、そこだけはご留意を。旨味と食感が「ぎゅっ」という感じに詰まったものができあがる。


 この豉油猪肉というのは、煮返せばそれだけ味がさらにさらに詰まって美味くなってくるというのが実に嬉しい。
 ビールでも間違いないのだが、こいつが真価を発揮する相手はやはり米の飯だと感じさせる。硬めに炊いた白いご飯の上にいい色になった肉や大根を乗っけて、味の染み染みになった卵を箸で割ってふうふう吹いていると何とも言えない幸せで満ち足りた気分になってくる。

 肉の塊を食い切ったら、最後に残った肉のかけらや長ネギごと汁で高菜を炒めてやる。これもまた白い飯に乗せて食うと美味い。ここまで無駄にならないというのは、あらためて考えてみてすごい。中国4000年の知恵に感服する他ない。こいつで炒飯にしても当然のように美味かったし、邱永漢によるとパンに挟んでみてもいいのだとか。次回作った時はパンにもお手合わせ願おうと思う。

カツオのたたきの残りをサンドイッチにする


 高給取りではないので、カツオのたたきの安さにはお世話になっている。サクでも300円ちょっとで売られているから実にありがたい。
 1本全部ひと息に食べてしまってもいいのだけれど、3切れ4切れを残しておく。それをハーブソテーにして、全粒粉の食パンでサンドイッチにすると休日の朝がとても豊かな始まり方をするのだ。
 近所にある日本酒とワインを出す大変に気に入っている小さな飲み屋があるのだけど、そこのサバサンドが大好きだ。全粒粉の食パンを使うのは、なんとなくそれをイメージしていたりもする。

 ちなみに実家に帰った際に最近一人暮らしを始めた妹にこのレシピを話したところ
 「キッチンにタイムやローズマリーがある男なんて心底信用ならねえ!!!」
 とのお言葉を賜った。どうやら僕が付き合ってはいけない類の男なのも、多方面から認められているようである。

青唐辛子を醤油に漬ける


 これはもう、そのままだ。特に変わったものは何も使わない。
 青唐辛子を刻んで、瓶に入れて醤油をドクドク注ぎ込んでおく。昆布の一片を入れてもいい。僕は入れる。
 一週間も冷蔵庫に入れておけば、青唐辛子の風味が醤油に移って使い勝手のいいピリ辛調味料になる。
 そして恐ろしいことに、青唐辛子にも醤油が染みてくるわけで……こいつが実に凶悪なビールのつまみになるのである。唐辛子そのものだからもちろん辛いし、醤油が染みているからしょっぱい。それを洗うようにビールを流し込むと、実に悪いことをしているような嬉しさがやってくる。絶対に体に悪いので、どうぞ程々に。

 もちろん調味料としては極めて優秀だ。これで作る釜玉うどんは爽やかな辛味があってクセになるし、揚げ物との相性もいい。
だがしかし、これで作る刺し身の漬けが実に美味い。伊豆大島の「べっこう」というやつだろうか。

 近所のスーパーでは、刺身パックの切れ端が詰め合わせにされて格安で売られている。こいつが手に入ったら、青唐辛子醤油で漬けにする。脂の多いサーモンでも、案外いい感じになってくれる。
漬け丼に飽きたら出汁を投入して漬け茶漬けにして食うのもいいだろう。というかいい。よかった。


 という感じで、日々自分の食うものをこしらえている。どなたかお嫁にもらってくれませんか?

カレーをスパイスから作る男になっていた

 絶対につきあってはいけない男の「3C」というのがあるそうだ。
 いわく、カメラマン、クリエイター、そして「カレーをスパイスから作る男」。
 僕はといえば、最近はカメラを持ち歩くこともすっかりなくなった。別に元から大したカメラを使っているわけではないけれど、もうこの数年はどこかに行くとなってもスマホのカメラで用を足してしまう。
 創作活動を生業にしているわけではないので、断じてクリエイターではない。何かを作ること自体は嫌いではないほうだと自分では思っているけれど、いかんせん「作り上げる」根性がない。凝り性な上にプライドが高いから、あれこれ考えているだけで終わってしまうことが珍しくない。しかもその過程で満足してしまったりするのだから、まあ世話はない。
 ということで、極めて善良な成人男性たる僕になぜ彼女がいないのか。考えられる可能性としては一つ……

 そう、僕はカレーをスパイスから作る。

 言い訳をすれば、常にカレーをスパイスから作るわけではない。
 ハウスジャワカレーの辛口だって使うし、安くなっていればエスビーのゴールデンカレー中辛だって使う。レトルトカレーだって大いに食べる。
 しかし、それでも、たまに、ごくまれに。だいたい1年に多くても2回くらい。カレーをスパイスから作ってしまうことがあるのだ。
 「どうしても!このカレーが!食べたい!」と体が求めてくる時がある。食べたいときが美味いとき。こうなっては作らないわけにいかないだろう。

 僕はこのカレーを、「必殺のチキン・カレー」と呼んでいる。

 カレーをスパイスから作る男と、なぜ付き合ってはいけないのかと考えてみると、「カレーをスパイスから作るなんて面倒臭さいことをやるなんて絶対に面倒くさい。その上変なこだわりを持っていそうで死ぬほど面倒くさい。だから絶対に付き合うべきではない。もはや自明。証明終わり。」ということのような気がする。

 では僕の必殺のチキン・カレーが面倒くさいものなのかというと……
 面倒くさい。いやもう本当に面倒くさい。揃えなければいけないものは多いし、調理にめちゃくちゃ手間がかかる。前日の仕込みに始まり、キッチンに立つ時間だってどうしたってたっぷり半日はかかる。
 それでもまあ、揃えるのが手間なスパイス類さえ揃ってしまえば他の材料はごく普通のスーパーで買えるものばかりだ。そのスパイスだって、別にアメ横や西葛西といったところのエスニック商店に行かなければ買えないというものはない。(大量に、キロ単位なんかで買うのであれば別だけど)

 ところでスパイスからカレーを作るなんて面倒なことをしているくせに、僕は根本的に面倒くさがりである。
 料理をすることは嫌いではないが、それは美味いものを食べるための手段だからでしかない。
 手段が目的化したのなら、僕はそれを「趣味」とか「道楽」と呼ぶことにしているけれど、その点において僕にとっての料理は道楽ではない。
 そんなわけで、このカレーを作る手順がずいぶん最適化されてきた。手を抜くべきところは大いに抜き、省略して構わないものは入れなくたっていい。
 カレーは足し算の食い物だ。何か一つの要素がなくたって他がそれを補うし、何かを入れれば入れただけそれは「味の深み」と言い張ることができる。

 というわけで、本日はこの「必殺のチキン・カレー」のレシピをご開帳いたしたく思う。
 環境や生活のリズムが変わり、気分がどうにもヘラってきた時に決まって食べたくなる、心をシャキッとさせてくれるカレーだ。
 大変申し訳無いが各種材料の分量についてはすこぶる適当であるので、完全再現が不可能な点についてはご容赦願いたい。そんなこと、作っている僕にだって、できたことはない。カレーは生き物なのだ。

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四万ブルーを見に行く

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「四万ブルー」という色をご存知だろうか。「よんまん」ではない。「しま」と読む。
 群馬県の山の中、四万川の上流で水を湛えるダムでだけ見ることができるのだという。
 僕は青という色が好きだし、なにより山の中には行きたい。ちょうど一つ仕事も片付いて、まとまった暇もできた頃でもあった。
 コーヒー入りの水筒とポケット瓶のウィスキーをカバンに詰め、その四万ブルーとやらを見てくることにした。

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焼肉とお引っ越し

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さて、引っ越しである。
2年弱続いた台地の端っこに建つ一軒家での「雑居」生活も終わり、いよいよ一人暮らしをしようとしている。
不安と期待の入り交じった……というのが一人暮らしの枕詞のような気がするけれども、正直なところ不安はない。実家を出て2年弱で、まあ大抵のことは一人でやってしまえるというのがわかってしまった。主観的にも客観的も、家事一切にあまり不安はない。行く手に見えるのは輝かしい未来ばかりというわけで、喜ばしいことこの上ない。

最近、とある女優さんがそうだというので少し話題になった適応障害というものを、実は僕も診断書に書いていただいている。
こいつは何らかのストレスが原因となって、情緒面や行動面で色々と厄介なことが出てくるというものだ。ストレスとなるもの以外においては案外普通に生活できたりするので、診断がつくまでは悩んだりしていたこともある。客観的に「あなたは○○ですよ」と言ってもらえることは、僕にとっては間違いなく安心に繋がった。
ストレスというものの原因になりがちなのは、やはり仕事なんだと思う。よほどのことがない限り、やらなければいけないし。ところが、実は僕にとって仕事というものは案外ストレスの原因ではなかったりする。1日に何時間も喋り倒すというのが主な仕事内容だが、人間とコミュニケーションが取れたりするのはそれなりに楽しいこともある。
とはいえ、さすがにこのところは疲れた。人生で一番忙しかったと言えるくらい仕事をしてしまったのだ。気持ちが落ち込むとか、暴飲暴食をするとか、胃が痛くなるとか、そういうところを越えると人間は狂うのだということを知った。知らなくてもよかったことだが、知ったからには色々生かすも殺すもあることだろう。

実のところ、今年の冬場の僕も中々こいつにやられていて、思えば普通に医者に行き、薬を出してもらうべきだったのだと思う。そんな状況を見かねたのだろう、愛すべき友人が焼肉をおごってくれるという、なんとも素敵極まる出来事があった。他人の金で食べる焼肉ほど甘美なものはない、とはよく言ったものだが、普通にいいお肉を食べさせてもらった。いい肉を食べることでしか出ない脳内物質があると、『きのう何食べた?』でシロさんが言っていたような気がする。本当にいいものを食べると人は笑うというが、実際その通り。笑えるネギタン塩を食べたこと、ありますか?嫌いじゃないなら食べた方がいいよ。
そのあと、その頃彼の住んでいた街を一回りして、お気に入りの店をいろいろと紹介してもらうなどした。台地の下、山手線の外側、いわゆる「下町」のド本流のようなところだ。なかなかここを目的地として来ることはないだろう、というようなところを連れ回してもらえるのは端的に楽しい。楽しいことは楽しめる、というのは本当に大事なのだ。

そこは、かつては松の根っこを波が洗っていたような低地だ。これから夏になったらきっと、どろりと重い空気の底に沈む。自分は大気の底を這い回る存在だと自覚させてくれることだろう。
連なる低い屋根に縁取られた空は、電線に区切られ、ところどころマンションに食われている。住んでいる人々は多分間違いなくぶっきらぼうでとっつきにくく、妙なプライドを持っている。
こんなところは嫌だと言う人はいるだろう。何がいいのかわからない人もいるに違いない。それでも僕には、素朴に、心から、いいところだと思わせる。

その街に今度住む。