濹堤通信社綺談

江都の外れ、隅田川のほとりから。平易かつ簡明、写真入りにて時たま駄文を発行いたします。

四万ブルーを見に行く

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「四万ブルー」という色をご存知だろうか。「よんまん」ではない。「しま」と読む。
 群馬県の山の中、四万川の上流で水を湛えるダムでだけ見ることができるのだという。
 僕は青という色が好きだし、なにより山の中には行きたい。ちょうど一つ仕事も片付いて、まとまった暇もできた頃でもあった。
 コーヒー入りの水筒とポケット瓶のウィスキーをカバンに詰め、その四万ブルーとやらを見てくることにした。


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 四万は群馬三名湯のひとつらしい。
 どのご家庭にもお揃いだと思う『上毛かるた』から引用すると、「伊香保温泉 日本の名湯」、「草津よいとこ 薬の出湯」の草津温泉、そして「世のちり洗う」四万温泉となる。
 四万温泉伊香保の先、草津の手前という場所になる。
 どうしても知名度で言うと他の2つには負けるかもしれないが、なかなかどうしていい場所だ。

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 なんといっても、四万は温泉が良い。
 無色透明で無臭のお湯が、本当にそれこそ「こんこんと」いう感じで湧いている。温泉街の各所に飲泉所があるのだが、飲んでみるとかすかに塩味を感じる。
 とにかく丸みのある、やさしいお湯なのだ。かつては草津で湯治をした客が、その湯治疲れを癒やすために訪れたのだというのも納得できる。

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某有名アニメのモデルになったとか、ならないとか

 それに、景色がいい。
 山の中を流れる四万川に沿ってできた温泉街だから、どこを見ても山だ。下を見ればざあざあと音を立てて流れる川。まあ、当たり前ではある。
 真冬に行ったから緑はほとんど無かったが、ということは杉ばかりでなく落葉樹が多いということだ。紅葉の時期に行ったらさぞ見事だろうと思う。
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 今回は2泊したのだが、3日めの朝、起きたら窓の外がこうだった。
 僕は雪がないところの育ちだから、雪景色を見るとやはりシンプルに嬉しい。綺麗だし、いくらでも見ていられる。そもそも雪が好きなのだと思う。

 いい温泉があり、いい景色があり、後は……
 何もない。
 いや、本当に。

 とはいえ2022年である。電気だってあるし、携帯の電波だって普通に通じる。
 テレビもねえ、ラジオもねえ、バスは1日1度来るなんて状況ではもちろんないが、それでも都会にあるようなものはあまりない。

 どこに行っても同じ店が同じような場所にある、いわゆる「ファスト風土」という言葉をダジャレ以上のものとして評価はしないけれど、そういうものとはまさに無縁だ。
 コンビニはない。まあ、なんでも売っている酒屋はあるので特に困らない。
 ファストフードのようなチェーンの飲食店もない。これは本当に1軒だってない。
 帰ってきてから気づいたが、そういえば道路に信号もなかった。

 「『何もない』がある」なんて陳腐な言葉を使うまでもないとは思ったが、書いてしまったので仕方がない。
 四万温泉というのはそういうところである。

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 さて、未だに免許を持っていない僕だから、四万温泉に行くためには公共交通機関に頼らなければならない。
 熱海や箱根といった関東近郊の超有名温泉地であったり、同じ群馬県で言うならば、それこそ先程の伊香保草津に比べても特段不便というわけではないので不安がることはない。
 
 東京から四万温泉まで公共交通機関を使って行くとしたら、選択肢は大きく2つ。バスか、鉄道か。
 バスは1日1往復、東雲から東京駅を経由してくる高速バスがある。冬と春は1日2往復になっているらしい。
 バスで遠出をすると、大体の場合目的地まで直行することになる。鉄道、船、飛行機、他の公共交通機関には真似できない、自動車の持つ特権だ。
 出発地点で番号を確かめて座席に陣取り、シートベルトを締めれば四万温泉まで連れて行ってくれる。途中の上里SAで休憩だそうなので、その間に手洗いに行ってもいいし、まあ僕のことだから煙草も吸うことになるだろう。そうしているうちに発車時間になるから灰皿にピースを放り込み、自分のバスを確かめて車内に入り、またシートベルトを締めればもうなんの心配もない。四万温泉にたどり着くことはまず間違いない。

 さあ、これが気に食わない。なんとなく自分を束縛されている気がする。
 シートベルトで物理的な拘束をされているのだから、もちろんそれはその通り。それ以上に自分の行先、予定、時間といったもの全てをナイロンのベルトで座席に縛り付けられている気がする。
 バスは人の持つ可能性をがんじがらめにして、アスファルトの路面をゴムのタイヤでごろごろと、摩擦係数も高く転がっていくのだ。あまり気持ちのいい乗り物とは思わない。バスが好きという人はだいたいが変わり者だから、あなたも今後の人生では大いに気をつけたほうがいい。
 僕はどこかに行こうとするとき、あまり色々なことを事前に決めたがらない。「何時に、どこ」というゴールだけを決めて、そこまではもう本当に気ままとしか言えないような行動をする事が多い。
 そういう人間だから、途中下車が想定されていないバスというのはどうにも窮屈な気がする。別に必ず途中でふらっと降りるわけではないのだけど、はじめからその可能性が考慮されていないのが嫌だ。お気づきかもしれないが、実は飛行機もそんなに好きではない。
 
 そういうわけで、鉄道を使うことにする。しかし、同じ関東の群馬県まで行くだけで、急いでもいないのに新幹線を使うというのは嫌だ。
 それに新幹線で行けるのは高崎までで、そこから先は吾妻線の普通電車に乗ることになる。どうせ少し前まで上野口で走っていたロングシートの211系だろうから、別に珍しくもない。
 Suicaのポイントがそれなりに溜まっていたから、普通のグリーン車で行くのも手だったがそれは帰りにした。

 上野発の新特急草津お召し列車にした。これなら、四万温泉の入り口である中之条まで乗換なしで行ける。もちろん、途中にどこかで降りてもいい。
 上野の地平ホームから特急に乗れる、というのも今となっては化石のようだ。世の中に大事に思われていないのだから、なくなるのはまあ仕方ない。でも、そういうものに執着することこそがオタク趣味な気もする。


 せっかくなので奮発してグリーン車に乗ってみた。僕も偉くなったものである。座席が3列のグリーン車も、今となっては絶滅危惧種なのだとか。

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駅弁とは箱で食わせるもの

 鉄路つつがなく中之条駅につくと、四万温泉まではバスが出ている。
 バスというものは乗るだけで目的地まで連れて行ってくれるから大したものだ。他の余計なことを何も考えなくていい。
 繰り返し言うが、バスが好きだという人は変人である。変態かもしれない。ゆめゆめお忘れなきよう。
 

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 始めに取った宿が休館になってしまったので、こちらに泊まることになった。
www.yamaguchikan.co.jp
 値段は倍になったが、結果的には大正解。もともとの宿だったら、バスを終点で降りたあと、山道を20分は歩かなくてはいけなかった。

 川沿いの露天風呂がある宿で、いい景色を見ながらいい温泉に浸かれて申し分ない。
 女将が言うには今年の冬はここ数年では寒い方で、すると温度の高い源泉をうめるための水を使う量が減るから良いのだそうだ。

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 部屋も川に面しているから、7階でも水の音が聞こえる。
 広縁に掘りごたつがあるのが気に入って、寝るとき以外はほとんどの時間をそこで過ごしていた。
 ひょんな事から3月いっぱいまでに上げなければいけない、という程のものでもないが1本の原稿ができてしまっているので、缶詰気分にひたることはできた。
 前述の通り四万温泉というのは何もないので、缶詰になりたい向きには最高だと思う。


 一応断っておくと、僕がでかけた頃はまん延防止等重点措置というやつがすでに発令されてはいた。
 僕自身はワクチンを2回接種の上、自分でできる限りの感染対策を行っているつもりである。
 当然ながら、宿をはじめ訪れた箇所全てがそうである。
 こんなことを書かなくていい世の中がまたやってくるのか、信じることができないけれど僕は願っている。


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 ご覧の通り、四万川の水は青い。
 もちろん水そのものが青いわけではなく、「青く見えている」のだが。水の中に含まれる粒子による、レイリー散乱の効果だそうだ。
 
 四万温泉の中を流れる四万川の上流に四万川ダムがあり、それによってできたのが奥四万湖だ。こんな水を満々と湛えているのだから、さぞや青い、いや青く見えるのだろう。何とかや、与謝野晶子が詠んだ青さだ。
 四万温泉の中心街(といっても、2分そこらで歩けてしまう)を抜けて上がっていくと、四万川ダムの一番下に出る。

 この堤高約90mを、つづら折りになった道を登っていく。さして危険という感じでもないが、歩くための靴でなければ気軽にお散歩という訳にはいかないだろう。

 肝心の四万ブルーだが……
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 そもそも冬は水量が少ないうえ、今年は寒いのだ。ということで、ほとんどが凍って上に雪が積もっている。
 それでもわずかに見える水面は青い。たしかに青い。これは素直に、見に行ってよい。寒い中、山道を登ってでも見に来るべきだ。

 太陽の角度によって色が変わるのも楽しい。ダムの上は風が強いのだが、それでも寒い寒いと言いながら1時間以上はこれを見ていただろうか。

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 コーヒーを水筒に入れて持ってきた。真空断熱だから、朝入れたものでもまだ十分に熱い。こいつにウィスキーを入れる。  
 「『何もない』がある」ところで「『何もしない』をする」。
 これをするためだったら、また1年仕事をしてもいいかな、と思えるくらいいい時間だ。
 お手軽に上野公園あたりでやってみてもいいかもしれない。上野公園だったら、昼からウィスキーを持っていても文句は言われないだろう。


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 ダムから降りたら昼時だった。持つべきものは食い道楽の友人。勧めてくれた鰻屋で、瓶ビールで焼けるのを待つ。
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 ね?いいでしょう、四万温泉