濹堤通信社綺談

江都の外れ、隅田川のほとりから。平易かつ簡明、写真入りにて時たま駄文を発行いたします。

この湿度の底で、どこかの誰かの日常みたいなメシを食う。


6月もじきに終わろうかというところだけど、まだまだ東京は梅雨の真っ盛りだ。
自分という生き物が大気の底を這い回る存在であることを、大気に満ち充ちた湿度が教えてくれる。
羽田の離着陸ルートが変わったのなんてもうずいぶんと前だけど、風向きによっては離陸してまだ高度の低い飛行機が我が家の上を飛んでいく。
そうなると、もうダメ。途端に、ここにはいたくなくなってくる。
夏の間、どうにかフィンランドの湖畔あたりで仕事をさせてくれないだろうか。

それに、こうもジメジメ、ムシムシとしてくれば人並みに食欲もなくなってくる。
というより、「自分が何を食べたいのか」というのがわからなくなる。何を作ればいいのかもわからない。
昼間は蒸し暑くても夜になると案外なんとかなるものだから、「もう、素麺で……」なんて気持ちにもなりきれない。

知らず知らずにそんな気持ちをぶつけていたのか、最近はよくわからないものを作って食べることが多かった。
特にどこの地域の、というものでもない。こだわりを持って、丁寧に作ったわけでもない。
外国の、田舎の町で1軒だけ営業している食堂があったから入ってみて、何もわからないから隣のトラックドライバーが食べているのと同じものを身振り手振りで頼んだら出てきた感じ。
どこかの誰かにとっては特に代わり映えのしない日常を、非日常として消化する感じ。
こういう料理を、僕は「異国メシ」と呼んでみたりしているのだ。

豆をトマトで煮たやつ


言ってしまえば、チリコンカンというやつだ。あまり食べる機会はないけれど、ハレの匂いもしない料理ではないだろうか。
「豆は栄養あるんだ。豆食ってるだけで人間、死にゃしねェんだ」と、砂漠の傭兵戦闘機部隊の兵站を支えた、業突く張りのジイさんの顔が思い浮かぶ向きも多いかもしれない。
作り方もシンプルで、刻んだニンニクと玉ねぎを炒めて、挽き肉も入れる。ここでセロリも入れると、すごくアメリカっぽい味になる。
トマト缶と、これまた缶詰になっている水煮の豆を入れて煮るだけだ。乾燥豆を水で戻してもいいのだけれど、あいにくそんな元気はない。
豆はなんでもいいのだけれど、赤いエンドウ豆、キドニービーンズというやつがメインだと異国みを感じる。ひよこ豆、レンズ豆もいいし、実はトマトを大豆の相性はすごくいい。
まあ、なんだ。ミックスビーンズを使うのが一番楽だ。


味付けはコンソメ、チリパウダー、塩、コショウ。どうせ大量にできてしまうだろうから、なるべくシンプルに済ませたほうが飽きない。カレー粉を投入すれば、しっかりした味の豆カレーにもなる。

モロヘイヤのシチュー


実はモロヘイヤがけっこう好きだったりする。
茹でて刻んで、醤油・かつぶし・納豆と一緒にかき回したのを、あつーい飯にかけてわっしわっしと食うのがたまらない。中々に旨味のある野菜だと思う。

そんなに安いものではないのがネックだが、近所のスーパーにはいつも売っている。その割に売れはしないようで、仕事終わりに行くとよく半額になっているのでありがたく買ってくる。
一袋50円なんかだと何も考えずにカゴに放り込んでしまうわけで、そんな時には煮てしまうわけだ。
茹でたモロヘイヤを、フードプロセッサーでみじん切りにする。フードプロセッサーほどありがたいものはこの世にあまりないだろう。
刻んだニンニクと玉ねぎを炒めて、これまた半額になっていたラム肉も放り込む。牛肉だって鶏肉だっていいし、別に肉なしでもいいと思う。モロヘイヤと水を入れて煮るだけだ。

たまたまではあるのだが、ちょうどこの頃僕の中でライ麦パンの波が来ていた。
シナモンが効いた緑色のドロッっとしたシチューと、バサッとした黒パンの取り合わせは実に「どこかの誰かの日常」を味わせてくれるのだった。

苦力飯(くーりーはん)


「20世紀はじめの上海あたりの裏路地で、半裸の苦力がしゃがみこんでかっこんでいそうな飯」を略して「苦力飯」と呼ぶ。ことにしている。
mikoyann.hatenablog.com
これについては去年も書いたのだけれど、台湾だか香港だかの家庭料理の定番で、豚肉と長ネギを醤油と五香粉で煮込むやつだ。
今年もすでに1度作っているのだけれど、考えてみればこれも異国メシに近いのかもしれない。


なんとくなく気づいたが、異国メシの「異国」感の源はよくわからずに放り込んでいるスパイスな気がしてきた。
カレーの次の異国メシ。提唱していけば、流行ったりしないだろうか。